2011.09.05
納得のいかないことがいっぱい。
これを読んで「自分のこと?」と思っちゃう人がいるんじゃないかと心配なくらい、すごいレベルの異様な変化でいっぱい。
これは、人々にも、自分にももちろんある震災のトラウマなんだな、と思う。
私の場合、ほんとうに人生はホラー映画のようだった。実際起きたこともちょろいトラウマではなく、言えないし書いてないことがもちろんいっぱいある。だから、ただ生きるだけだ、生き抜くだけだと今思っている。自分の場所で、臨機応変に判断して。人にも土地にもなるべくかじりつかず。
悲しい本を読んだり、悲しい音楽を聞いて、泣いて泣いて苦しんでみたり、こわすぎる映画を見て、あまりにもこわくて眠れなくなったりするのは、意外に効果がある。
そのこわさのジャンルはドキュメンタリー的なものではなく、もちろん優れたフィクションのことだ。音楽も、もちろんそうだ。もちろんもちろん、小説でもいい。
あとは笑えるものに触れて、泣くまで笑うのもいいと思う。
それは普通の日々を生き抜く心を準備できる。
前も日記に書いたけれど、幼い私の毎日はホラーだったので「ゾンビ」(いろいろなゾンビがあるけれど、もちろん『ドーン・オブ・ザ・デッド』アルジェント版のことだ)を観たとき本気だった。これは私の毎日に似ているとさえ思ったし、私の毎日よりもひどいからこそ、自分が大丈夫と思えた。あれは私にとって、映画ではなく、現実だった。
愛する親やきょうだいやともだちが死んだ後、腐りかけながらよみがえってきて、自分を食べようとする。情はなにも通じない。もう生きていた彼らではない。もしも生き延びたかったら、彼らの頭を残酷に打ち抜くかたたきつぶすしかない。噛まれたら自分もゾンビになる。だから毎日じわじわと世界にゾンビが増えていって、人類は減っていく。これを、自分のこととしてリアルに考えてみたら、どれだけ絶望的な状況か、想像できますか?もちろんこれは七十年代、核とヴェトナム戦争にまつわる不安が背景にあったからこそできた映画だ。
ショッピングセンターの中で、人種も職業も超えて、友情を育み暮らす人々。そこにはくりかえし、かろうじて生きている人類が意味なく発信している絶望的な議論に満ちたTV番組と世界の人口が減っていく悲惨な映像が流される。
極端なストレスの中で、命が生きるからだけの理由で生きようと決意する人たちの絶望的な希望。
しかし、これが人類の力なのだ。たとえ滅びるとわかっていても、一日を生きる。ラストシーンの希望と絶望は、私に最後の線での救いを与えた。
まさか、あの映画がほんとうになるなんて思わなかったな、と私はあの3月の日、くりかえされる津波と原発の映像を観ながら思っていた。全く同じじゃないか、このむだな議論も、絶望的に部屋にいて外に出られない閉塞感も、毎日わからないこわさがせまってくる不安も。
よし、今こそあのときの絶望と希望を思い出そう、と思った。
幼いときにインパクトを受けたものの効果は絶大だ。
みなさんに「ゾンビ」をすすめているわけではありません(笑)!
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