2008.01.21

ヒロチンコさんのパパといっしょに餃子の旅に出かけた。
チビははじめ恥ずかしがっていたが、どんどん調子が出てきて人が振り向くほどのうるささになってきた。最後はほとんど引きずられて新幹線に乗っていた。
地元の明さんに教えてもらったので当然と言えば当然だが、正嗣のちょっと離れたスーパーの前のある店舗の餃子がやはり最高だった。宇都宮餃子、私はみんみん派ではないかも。そのあと五件くらい食べ比べをしたら、苦しくて餃子のことを考えるのもいやになってきたが、とても楽しかった。
みんな経験があると思うが、親といっしょに出かけても世代が違うからしたいことも違うし、ああ、早く解散にならないかな、自分の好きなことをしたいなあと子供の頃思ったものだ。でも、だんだん自分が大人になり中年になると、あの気持ちを懐かしく思い出すし、頼りになる人と歩いているときの安心感ももう誰も与えてくれなくなる。
私に子供ができたときにはうちの両親はもう歩けなかったからあまりいっしょに外出できない。たまに車いすを二台出して巣鴨や佃島に行くのが限られた幸せの時間だ。
だからヒロチンコさんのパパといっしょにデパートを歩いたり、神社に行ったり、オリオン通りを歩いたり、チビがおじいちゃんと手をつないで歩いているのを見たら懐かしいのと楽しいので言い知れない幸せな気持ちがわいてきた。
帰りの新幹線に野村監督がかっこよく乗っていて、私はもう頭の中で小学校の時に熱烈に読んでいた「あぶさん」からの思い出で胸がいっぱいになっていたのに、ヒロチンコさんが「だって、間違いないよ、聞いた?あのせきばらい、あんなの他の人にはできないね、完璧だよ」などと言いながらひいひい笑っているのでムードがぶちこわしに。
そういえばこの間も狂言の和泉さんがあの有名なママと乗っていたとき、ご本人はサングラスに帽子をかぶっていたのに、きらびやかなママはなんの変装もしていらっしゃらなくて、ヒロチンコさんはげらげら笑いながら「本人を隠してもママを隠さないとなんの意味もない」と言っていたっけ。
2008.01.20

原さんのお母さんが亡くなられた。確か九十になられていたと思う。
私は当時近所に住んでいたので、よくいっしょにごはんを食べたり、お茶をしたり、花札を(自分はできないので)見学したりした。そして夜道を歩いておしゃべりして帰った。やがてお母さんは足が不自由になり、いくら大量のガールフレンドにもてもてとはいえ独身の原さんでは無理だろうということで、月のうち半分をご長男の夫婦の家で、もう半分を別のお兄さんのご夫婦の家で暮らすことになった。そこへ遊びに行ったらお部屋もあって専用のTVもあったけれど、住むところが決まらないっていうのは、つらいことだなと正直に思った。子供さんもいるご夫婦二組だしまだ若いので、やることがたくさんあってどうしてもお母さんのことが後回しになる感も否めなかった。ひとりでトイレに行けなくなったことで、ひどい便秘になって入院したりしていた。原さんはそれが耐えられなくて、ひとりでお母さんを見ていく決心をした。この十年間彼にはほとんど自由がなく、お母さんははじめはおしゃべりできたがだんだん座ってTVを観るだけになり、寝たきりになり、その頃にはもうどこにもショートステイができない状態になり、原さんは毎日つきっきりになり、そのまま亡くなった。もちろんヘルパーさんも周囲の人も手伝いはしたが、基本的に原さんは十年間ずっと下の世話をし、お風呂に入れ、ごはんを作り、仕事もしてきたのだ。偉大なことだと思う。
よその家のことなのにここまで書くのはかなり失礼だと思うが、友達の全員がひたすらに彼を偉大だと思っていたことを個人的に記しておきたい。
私がまだお話できる頃のお母さんと最後にしゃべったのは、私の着ていたコートがすてきだということと、私の赤ちゃんが大きいっていうことと、原さんが大事にしているアフリカの木像が「あれのどこが気にいったのかしらねえ、気味悪いし、足もないし。でもマスミが大事にしてるから、ないしょだけれどね」と大きい声で言って、おかあさん聞こえてるよ、と原さんが言っていた、その会話だ。お母さんはいつも原さんは優しい子だ、いちばん優しい子だとおっしゃっていた。
最後に会ったのは去年に引っ越した新しいおうちを訪ねたときで、もう寝たきりで意識がなかったけれど、温かい部屋できれいな服を着てすうすう寝ていた。
霊安室でのお母さんはあまりにもきれいに寝ていて、チビには生きているときとの区別がつかなかったほど。でも触ったらいつもと違ってほっぺたが冷たくて、ああ、もうこの中にはいないんだ、と初めて私まで納得するほど自然だった。原さんは普通にお母さんに話しかけ、生前と変わらず世話をしていた。あと十年でも二十年でも平気だったのに、と言っていた。あまりにも愛されて世話されて死んだ人の姿だったので、不思議と泣けなかったけれど、家に帰ったらうちにはお母さんの作った花瓶とか袋がいっぱいあって、大泣きした。
彼の芸術の仕事は偉大だし、お母さんも「マスミは小さいときから絵がうまくて、近所のぼけたおばあさんが階段に座っている絵なんかあまりにもうまくって、いたたまれないほどだった」とよくおっしゃっていた。でもこれ以上に偉大な仕事はないような気がする。女が子育てして見返りを求めるのとはまるで違う。本来向いてないことを執念と言えるほどの愛情でえんえん十年間やり続けて全うしたのだ。
それにしてもうちのチビが産まれて初めて見た生きてない人が原さんのお母さんでよかったと思う。光栄なことだ。
しょんぼりしたので、夜は無理してでもりかちゃんのおうちの新年会に遊びに行った。なんとりかちゃんが目の前でチキンカツを揚げてくれたので、夢みたい、と思いながらおいしくいただいた。出てくるものがみんなきれいでおいしくて、ほんと〜にりかちゃんと結婚したキヨくんは幸せだなあ、と思った。りかちゃんがいっしょにいたらこわいものはないような気がする、そんな女性である。のんちゃんとソファーでごろごろしながら、フラのDVDを観たり、オットマンの名称を覚えたり、あっちゃんの踊りを見たりしてよい時間を過ごした。そんな優しいおじょうさんたちがケーキを選ぶときだけ笑顔を見せず真剣になったので、すっごくおかしかった。
2008.01.19

WiiFitのあまりの重さに、これを持って帰るほうがよほど運動になるよ、と思った。まなみの言う通り、ゲームをしていて運動をしていない罪悪感を減らせる、いいところに目をつけた商品で、売れるに決まってると思った。
どこも在庫切れの昨今、いちかばちかで大量買い付けをしていた(推測だけど)さくらやはえらいなあと思う。
いっちゃんとチビが年齢を超えていっしょにゲームをして、抱き合って喜んだり、いっしょに問題を解決したりしているのを見ると、結局人はだれといてなにを話して過ごしているかなんだな、と思った。
2008.01.18

はるばる豊洲までエステに行き、東急ハンズでバカほど買い物をしてしまい、あわててゲリーとの会食に走る。体調が悪くものすごい食事制限があるというので心配していたけれど、前に会ったときよりも元気そうでよかった。お見舞いにでっか〜い抱き枕を持っていき「これをスーツケースに入れて持っていってくれないと一生呪う」と言って渡した。「ダッチワイフだ」と言って喜んでいたので、よかった(?)。
そんなおちゃめで意地悪でひとつも和むところのない、おちは必ずひどい狩猟ネタやおそろしい死に方をしたペットの話を次々繰り出すゲリーだが、基本的には偉大な存在。今日本でスクールをやっていて、とても忙しそうだ。ゆりちゃんとえりちゃんも忙しそうだったけれど、このふたりはいつもコンスタントに身も心も美人さんなので会うとほっとする。気をつかわなくていいから、すごく楽な人たちだった。
帰宅してからチビとマリオをやったら、チビのほうが全然うまくなっていた。
子供にどのくらいゲームをやらせるかに関して、共同生活という観点から考えると案外自然に解決するように思う。深夜までこっそりふとんの中で昆虫図鑑を見ていたのは美談になり、ゲームをやっていたのはどのゲームであれ悪、となると、判断しているほうの問題ともなる。いっしょにソフトを選び、他の楽しい時間を尊重するように教え、これもまた日々調整していくしかない。もうこの世にあるものは、どんなものもいい点と悪い点を半分ずつ持っている。だからどうつきあっていくかをひとつずつ考えるしかない。
2008.01.17

ヘキサゴンカフェでおいしいお昼をばりばりと食べた。おいしいものが大好きな人が考えたごはんの味がした。
そして高橋みどりさんにばったり会った。私の家の夕食の七十%くらいが伝言レシピか酒のさかなの本からできていることを思うと、頭があがらない存在だ。なにかがちょっとのんちゃんに似ているので、好きなタイプの人ってパターンがあるなあ、と思う。みどりさんのお顔も文字も大好きだ。
ちょっとだけロルフィングを受けて突き指の後のうまく治らないところを調整してもらう。そうしたらなぜか頭がからっぽになってやるべきことがさっぱりわからなくなったので、おどろいて、そうっと帰った。
それでもフラへは行き、はげしく踊っていたらだんだん目が覚めてきた。
はじめのころ、さっぱりわからないし覚えられなかった踊りがたくさんあるのだが、それにしても必死で集中してついていこうとしていた。そうしたら、中盤に少しできるようになってだれてきた頃の踊りよりもなんとなく体が覚えているのである。大ショック。初心ってすごいものなんだ。忘れちゃいけないわ!
帰りにみんなで自分たちの方が年齢が上なのをいいことに偉大なクリ先生をぐいぐい追いつめてからかったりしていじめた。困惑してもそれがあまり表に出ない美しいクリ先生であった。そしてからかったまま「ああすっきりした!」とみんなで放置して、クリ先生に乾杯!と乾杯してごはんを食べて帰った。すてきな生徒なのかいやなおばさんなのか、かなり微妙である。
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