2008.12.16

shozoで心から和み、おいしいコーヒーを飲む。あの広さはやはり都内では実現できないよね〜。ほんと、いいお店。よくぞ思いついた!と思う。
そしてサファリパークへ行く。
キリンがベロをべろ〜んと窓から入れてきて動揺した。動揺しないのはヒロパパだけだった。さすが草食動物の専門家だ。
トラやライオンはぐうぐうぐうぐう寝ていた。たまにしっぽをぱたぱたするのが猫っぽい。
そしてLa terraへ行き、いつのまにか窯ができているのに衝撃を受けながら、ピザを食べる。おいしかった〜!
夜は正嗣のいちばんおいしい岩曽店にりさっぴと行き、明さんのママのやっているスナックへ行く。スナックってスナックならではの安らぎがある。力を抜いていいんだよ的な。ママはものすごくいい人だった。カラオケでぞろ目を出してはただ酒を飲んでおいてなんだが、この場所で長い間スナックをやって子供を育てながら生きていくってすごく大変なことだったと思う。子供たちはとにかくみんな親をだいじにしてほしいな〜と思わずにはいられない。
2008.12.15

ものすごく風邪がぶりかえして呼吸困難になりながら、那須へ。
しかし安田さんの力で、最後の線で体が安らいでいる。
いつもの感じのいいしかも激安の温泉宿へ、ヒロパパといっしょに行く。やはり感じがよかったし、お湯もいい。みんなでぐうぐう寝ていて、ふと見ると、ヒロパパが部屋にいて嬉しくなる。
私が忙しくて相手をできないと、チビがどんどん悪くなる。その悪いエネルギーのすごさといったら、男子の先が思いやられる。思春期と同じ質の、でもまだ軽い力だ。きっとこれが核エネルギーや太陽エネルギー(コナンの見過ぎ)と同じようなものになるんだろうなあ…。
ランちゃんの「パピヨン」を読む。今日は一日ずっとランちゃんといた感じだ。
装丁もきれいだし、ロスに関する気持ちもほとんど同じ。
以下に関して、私もだがランちゃんはもっとそうだと思う。
異様な環境を耐えた人はみんな「整合性を求めなくちゃ、きちんと明るくしていなくちゃ、だれかがいつも笑顔でいなくちゃ」というがんばりかたをする。春菊さんもそうと言えるかもしれない。それは、理不尽な怒りや程度の低い感情の爆発でまわりがぐちゃぐちゃになるのを何回も見たからだ。自分はそこでだれかに明るくいて助けてほしかったのだ。自分が悪い役になる、それだけはいやだと思うから、過剰にいい人であり、筋道がある人になろうとする。
しかしそういう人たちが集まっていると嘘くさいのでたたきこわしたくなる。そこも同じだと思う。自分の中の嘘を外に見たら、それは不快だから。
ランちゃんのお父さんはただ人間だっただけだが、強い人間はまわりをぐちゃぐちゃにする。自分で自分をもてあまし、なにもかも破壊するまで止まらない、そういうタイプの人。最後までかかわり、人間くさく対応したランちゃん…偉大だなあ…。
お父さんがいなくなって、義理の家族に囲まれ、くせのある過剰な性質の人たちを恋しく思うくだりで泣けた。
怒りと恨みでぎゅうぎゅうだった彼女の昔の作品に比べて、全部が透明だった。人は変わるんだ、そう思った。そしてのりこえたからには、これからはもっと重いものを自由自在に書くだろう。
私はそんなランちゃんのおやつ?お茶請け?のような存在でいたい。
ランちゃんが実はいちばん苦しんで書いたのは、バリの話ではないだろうか。書くことが楽しいとは思わず書いているような感じだった。あのとき、もしも投げ出していたらきっとこんな透明な世界には到達しなかったと思う。私もふんどしのひもをしめなおして、ランちゃんに恥ずかしくないものを書こう。ランちゃんの描く重い世界に匹敵するファンタジーを描き続けよう。
それはライバルとかではない、妬みでもない。もっと頼もしい関係だと思う。
深く深く掘り下げたら、きっと妬みとか自分にはできないうらやましいこととか、もちろんいろいろ私にもある。そこに焦点をあてて一冊本を書くことができるくらいあるだろう。しかし奥からどろどろ出てくるのはしょせん自分の姿だ。それよりもランちゃんの笑顔が好きだ、書くものが好きだ、そういうことが勝るのだ。
2008.12.14

年末最後の踏まれたい会。
安田さんのところへ踏まれたいギャル(30代後半よりももっと上中心)が集まり、ぎゃあぎゃあ言いながら踏まれたり、ぼうっとしたりした。
チビは安田さんの偉大さがわかるらしく「ししょう!」と呼んでいて、大好きだ。そして私たちは安田さんを偉大に扱わないことで逆に偉大に思ってることを表現している。すてきなメンバー、すてきな一年だった。
不健康だったはずのみんななのに、無事に生きていてただそれだけでよかった。
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