長い間、読者と直接交流するための場として、自分のサイト内に質問コーナーをもうけてきました。
そしていくつもの質問に答えてきました。
読者のみなさんにとっては、個人的に著者と接するなかなかない機会なので、どうしてもその人がそのとき悩んでいることを書いてきてしまうのは理解できます。みなさん、その人の個人的な状況を事細かに書いてきてくれてしまうので、なんとなく答えはその人のその状況だけに向けたもののようになってしまいます。交流が主目的なのでそれでいいと思っていますが、この切実な時代の今の日本には「この質問をすることによって、よしもとさんの考えをみなでシェアできたら」というふうに思う人はほとんどいませんでした。
もちろんそれは悪いことではないし、責めているのではありません。
それが自然なことならしかたないな、というふうに思います。
しかし、そんなに個人的な質問のはずでも、くり返し出てくるテーマが、いくつかあるのです。そのことがなんとなくひっかかっていました。
今回、私はそれをいくつかピックアップして、それに関する考えを形にしようと思いました。
本になる前に、ここでみなさんとシェアできたらと思います。

私は非常に特殊な環境で特殊な人生を送ってきました。
なので、私の考えや意見など、みなの役にはたたないだろう、と思い込んでいました。
しかしある日、叶恭子さんが思春期の人たちに向けて書いた本を読んだら、私以上に特殊な環境にいる人なのに、なぜかものすごくためになり、しみてくるのです。
もしも、思春期にこのような本に出会えたらよかっただろうなと思いましたし、私にも、自分の特殊さゆえに見えているものがあるのかもしれないと思えてきました。
また、先日、子供の頃からの憧れであった萩尾望都先生と対談をしたとき、
「いつか、ばななさんが人生相談に答えているとき、若いのにこの人はえらい、作家だな、と思ういいことを書いていた」
とおほめの言葉をいただきました。
そのふたつのことが、私にこのことを思いつかせました。
こういうことを次にするのは、また経験を積んでおばあさんになってからと思うので、いっしょうけんめいやりました。
もしも、少しでもお役に立てたら幸いです。
ものごとに絶対はありませんし、あくまで特殊な私の個人的な意見ではありますが、一般論を書いてもインチキになってしまうので、正直に、長い間自分や人々を見てきて気づいたことが、ここには書いてあります。
眠れない夜や、どん底だと思うとき、ひとりぼっちだと思うとき、旅行先で心細いとき、私の小説とは別の形でこの考えたち(本)がみなさんに寄り添ってくれたら、と願います。


よしもとばなな 

 


Q:価値観が異なる姑と家族としてつき合わなければいけないとき、何に気をつければいいのでしょうか?

私の見たところによると、姑とほんとうに価値観が合う嫁なんてこの世にひとりもいないと思います。
最愛のものを取り合っているのですから、そりゃあしょうがないでしょう。
男はやせがまんをしてなにか大きな決断をせまられることがあったときにはいちおう嫁を取りますが、それは母親に対する「嫁を取るしかないことをわかってくれるだろう」という究極の甘えなのだと思います。つまり、姑に勝てる嫁は基本的にはいません。
だからといって、戦い続けるのもばかばかしい気がしますが、戦いの勢いでいつまでも元気でいるおばあちゃんもいるから、表面的な、根の深くない、根底に愛のある戦いならいつまでやってもいいと思いますし。
うまくいっているように見える家というのは、つまり嫁が人付き合い上手、甘え上手な場合、あるいは姑がものごとをしっかり分けて考えられる場合ではないだろうか?
一回いやだと思うと、その人と同じ空気を吸うのもいやになるのが人間というもの、そこまでいったらお互いに疲れるでしょうし、そうなるのは容易です。無理に無理を重ねていると、簡単にそうなるのだと思います。
かなり早いうちから地を出して、思う存分悪口を言われて、それでも憎めないというところまで持っていくのがベストだと思うのですが、それにもとにかく時間をかけることです。
人と人の関係とは不思議なもので、どんなことにも慣れるのです。
無理さえしていなければ、長い時間をかけてお互いを家族と呼び合っているうちに、なんとなく親しい気持ちがわいてきて、たとえば姑を他の人が悪く言うとすごく腹が立ったり、姑がどこか痛くして入院しているとかわいそうになって好物をたくさん作って持っていきたくなったり、自然にするものだと思います。先方も同じリズムで慣れてあなたを好もしく思うようになってきて、他の人があなたのいないところであなたの服装や言動をけなすと、いいところもあるとかばってくれたりするようになります。
形だけでつきあっていると、一見うまくいっているように見えても、心からそうなるのにもっともっと時間がかかります。
「いやな嫁だけど憎めない」「いつまでも完璧主義で気取った嫁だけどいると明るくなる」「なんにもできないし甘えてばかりだけれど、息子とうまくいってるみたい」くらいの低めのところにレベルを設定して、時間をかける、それがいいと思います。
私はいまや嫁と姑双方の気持ちがわかるので面白いですが、どちらにとってもいちばんいやなことは「なんとなくしむけられる」「なんとなくこうあることを望まれている」です。
いないところで思いきり互いを悪く言って憂さが晴れてしまうのも人間なら、思いきり陰口を言っていた相手に感じよくされると「悪かったな」と思うのも人間です。そのくり返しでだんだん家族っぽくなっていくのかも。
着地点は「どうもうちの息子のことをほんとうに愛してるようだから、問題あるけどいいか」という感じでいいのではないでしょうか。
それ以上の深くわかりあった関係を、ここしばらくで知り合ったばかりの他人に求めるのは無茶ですよ。
だんなさんの選び方をむちゃくちゃに間違えなければ、だんなさんのいちばんいいところを作ったのが、どんなに表面的には違うように見えても、底の方でその両親たちだということがわかると思います。そうすれば、決してほんとうに嫌いにはならないと思いますよ。
そして、姑の立場から申しますと、その女性が息子をほんとうに愛しているかどうかは、ひと目でわかります。どんなにごまかしてもわかります。息子になにかしてほしくて好きなのか、ただいるだけで好きなのか。
だからこそ、相手をほんとうに愛していると言い切れるようになってから会うのがいいとも思うのです。恋愛中のいちばん燃えているときは、とにかくお互いに「欲しい、とにかくくれ」という状態なので、互いの親に結婚を前提として会うのは好ましくない気がします。多少つきあいが落ち着いて、お互いがなくてはならないようになって、あうんの呼吸で気持ちがわかるくらいの時期になってから、堂々と会うのがいいのではないでしょうか。
これに関しては全生社から野口晴哉先生の「嫁と姑」という名著が出ています。手に入れにくいし上下巻ある長い本ですが、読み物としてもかなり面白く、人間の体と心のメカニズムがよくわかるので、おすすめです。