人生のこつあれこれ 2013年12月

これまでいちばんよしとしていた価値観をみんな捨てるときには大きな勇気がいる。また、これまでしてきたことを全部変えるのだから、これまでのあやまちが全部自分に襲いかかってくる。
しかし、そこで力まずに、かといって勢いをつけすぎずに、でも勢いを失わずに一山超えると、知らない景色が開けている。
それは、これまでの自分が実はいちばん見たかった景色なんだと思う。
ある特定の生き方や信条を大切にしていると、それを実践しているときの垢みたいなものがだんだんもやもやとたまってきて人生の足を引っ張るようになってくる。
だからたまに変える必要があるのだろう。
変えながら自分の人生をカスタマイズしていくのは、天から命をもらったものの義務であり、人生の意味だと思う。
そしていろんな形の人生を味わうことが大切なのだろう。
それをしているうちに、どの人生も大差ない、大差あるのは生き方だけだということがわかり、他を認めることができるようになる。他を認めるということは、やたらに包んでムリして許すことではないし、他に合わせることでも、全部受け入れることでもない。
「そういうのオレは大っ嫌いだけど、あんたが好きなら別にやっときゃいいんじゃね?オレは関係なくおやつでも食ってもう寝るわ」
ができるようになるということだ。
「そんなにひんぱんに人生観変えちゃって、自分がわからなくならないですか?」
いやいや、そんなことぐらいで人の真の個性は消えない。
反射的に考え、行動し、振り向かない。そのかわりそれで生じた痛みはみんな引き受ける覚悟をする。未来のそのときの自分が絶対なんとかしてくれると信じる。そのためには、ふだんからおのれを信じられるよう、自分をだらしなくさせるものに接しない。
それが心の断捨離だろう。
ものを捨てたり、生活をシンプルにしている人はたくさんいる。
しかし、心の中のそういった大掃除をする人はとても少ないように思う。
私は普通の目でものを見ていない。それから頭でも考えでも見ていない。
そういう人はたくさんいるから、通じる人には通じると思う。
オーラでもない。でも「気」はちょっと近いかもしれない。
これこそがドンファンのいうところの、トナールなのかもしれない。
クリーンでしかたなく見えるぴかぴかの自然食品店やレストランのカウンターや従業員や食べ物が、なぜかねばねばしていたり、ドロドロしているのはよくあることだ。
ホームレスのおじさんに食べ物やお金を渡すことはあっても、いかに優しい気持ちを持って見ても、その人の重ねてきた人生の汚れで見た目のまま残念な気配のことはかなり多い。
アル中の人は、なんだかいろんなものがたら〜んとしずくみたいにたれているように見える。うちの母はある意味立派なアル中だったけれど、母だからではなくて、なぜかそう見えなかったから、母のお酒はまだ薬の域だったんだろう。
犯罪者は顔の左右が少し違っていて、目だけが鋭くて、あとはギラギラっとしてさらにねばねばしているからすぐわかる。
ものすごくきれいでも蛸みたいな触手を常に人にぐるぐるからめてくる怖い宇宙人にしか見えない人もいるし、こりゃすごいなというような変な造作の人でも天使に見えることもよくある。ダウン症の人はたいてい天使だ。
あまりに前向きすぎる人と話すと顔が痛くなるし、後ろ向きな人といると体が逃げていつのまにか耳をふさいで帰宅している(笑)。
野心家は顔が強く白くもしくは赤く前に出て見える。
毒舌家で心が淀んでいる人は病気の顔色だし、そうでない人は神職みたいに清く光っている。
私みたいにもごもご声を届かせないでしゃべる人は、内気でプライドが高いし、大勢になにかを見せたいと思っていない。逆にはきはきしゃべる人は、深く考えるのが苦手。
秘密のある人は顔の回りがすごく濃い色をしているか、考えないようにしているから真っ白く透明になっているかのどちらか。
金銭面でたくらみのある人は、前は完璧だが背中を見ると隙だらけ。
頑固で意地っ張りな人は、はっきりと声を出すしその声が直線になってまっすぐ前方に進む。
うそばっかりついている人とか人を操る人といると、その人がどんなにいい人風で、その人がどんなに自分でそれを真実と信じて自分までだましていても、なんだかわからないけど首の向きをぐっと固定されているような、頭の上のほうだけがご機嫌で意識は逃げ出しているような、血がのぼった変な状態になるからすぐわかる。
私のものの見方は、一歩間違えば病院行きの可能性があるくらいだが、実際に役に立つことが多いので、おのれに見えるものを信じている。
ただ、人には決して押しつけないようにしているし、プロのサイキックじゃないから責任も取れない。アドバイスを求められなければめったなことでは言わない。だから、
「自分にはこう見えるから、自分はこうはしない」
それだけのシンプルなことだ。
そして、そういう言い方で相手の存在をたとえ悪者だなと思っていても認めていると、相手も単に認めてくれるようになる。これこそが平和っていうものだと思う。戦争でないだけで、いい感じだったり雰囲気がピースフルなのではない。ただ、お互いがいる、いやだけど、いるのはしかたないだろうな、それだけ。でも、それでいいんだと思う。
だから、私には世の中の価値観が逆に全然わからない。
かなりとんちんかんなんだろうと思うし、儲からないわけだ(笑)!
ただ、こういう人が役に立つということもあるんだろうと思うから、言ったり書いたりしているのだ。
「じゃあ、よしもとさんのまわりには完璧に気がきれいな人しかいなくて、よしもとさんも武道の達人みたいなものですね!」
と言われると、それはそうではない。
まあ、汚れや意図や秘密を持っている人はなんとなく気が合わなくてはじかれやすいというのはあるけど、おおむねのところ、私も酒ばっかり飲んでだらーんとしてるし、みんなぐちゃぐちゃに汚れてる、だからまあお互いさまだろうよ、と思う。
それでいいんじゃないの?人間なんて、と思う。
ただ、生まれてきたのは、自分の一存ではないと思っている。
ひとりでやってきて、ひとりで消えていく宇宙の中の小さな光、それが自分だ。
だとしたら、それを育むのは、やっぱり生まれてきた意味の全てなのだ。自己実現とか幸せとかそういうことではない。持って生まれたものを磨くだけのゲームなのだ。
なるべくカスタマイズを進めて、かなりいいところまではやったな、と思って死にたい。
だからこそ、自分に見えるものを信じて、行動していきたい。
読者さんたちや信者さんたち(笑)にはその生き方をまねるでもなく、私の指示を仰ぐでもなく、私を妬むでもなく、それぞれの人生の中で個別の形で小さく発酵するかわいいパン種みたいなものだけをあげたい。


お金の話を少しだけしようと思う。
ここではなるべく大勢に私のよいと思ったものをシェアしたいから、いちおうアフィリエイトでリンクをはっているけれど、そんなことではなく、この欄を有料メルマガにすればいちばん早く儲かる。
お金を払って特別な情報を得るという気持ちに読者さんたちもなるし、私も潤う、それはそれは合理的に見えるし、確かなことだ。
しかし、あるものを得たらあるものを必ず失う、そのことに思い至る人はなかなかいない。
ここが無料で、みんながひそかにバンバン英訳したりコピペしたりしていることで、リスクをおいながらもなにかを得てバランスしているのはそれをしてるみなさんだし、そのことでいちばん宇宙を広げているのは私だ。シェアしたことがいちばん望む形で人の役に立っている、その恩恵を宇宙からこうむっているのは私だ。それはお金には換えられないものなのだ。
力にはいろんな形がある。お金という形態はそのたった一種類だ。
お金に換えた時点で、それはお金以上のものにならなくなる。
でも、お金は必要だから、そうするのだ、というケースももちろんある。
そのバランスを考えることだって、人生のカスタマイズなのだ。
ノイズは減らした方がいいが減らしすぎると弱っちくなるし、クリアなほうがいいがクリアすぎると目が曇ってくる。
全てはバランスで成り立っている。全くよくできているこの世のしくみ、人間社会なんてその小さな一部なんだな、と思うことが多い。


通称「今月のオレ」であるところのこの「人生のこつあれこれ」はいったん今年で終わる。
来年のこの欄はほんの少し姿を変えて、別の形で本になったり電子書籍になっていく予定です。
いろんなことがあった期間、この場所に来てくださって、ほんとうにありがとうございます。


ある国のある場所に、なんでもかんでもわかっちゃう占い師がいる…としましょう。お問い合わせにはどうしてもお答えできませんので、架空のこととしておきます。
立て板に水みたいに、ほぼ真実であることをどんどんしゃべることができる。
信仰もあつく、いい人で、たくさんの人を救ってきたすてきな人だ。
実際、抱きしめたくなるくらい、かわいらしい、すてきな人だった。
その人の周りにはその人に注がれたお金で食べてる人がたくさんいた。その人たちはごうつくばりな顔と意地悪い目をしているか、その人に力を全部あずけてイエスマンになっていた。
私だって、一歩間違ったら、周りはそんな人ばかりなはずだ!ぞっとした。
その人が立て板に水みたいに、私のこれまでの人生やこれからのことをズバズバ当ててきたとき、驚かなかったと言ったらうそになる。
反感は持たなかった。
そうかもしれないな、このまま行ったら、きっとそうなるんだろうな、そしてその中でも私は生きてくんだろな、そう思えた。
でも、ちっとも興味が持てない未来だったのも確かだ。
その前後に、私は偉大な小説家にたまたまふたり会う機会をえた。
ひとりは鉄道模型が好きな真に知的な偉大な人(笑)で、もうひとりは私の道の全て先を行き、道を開いてくれた尊敬する大先生であり、同じ時代でなんとなく魂がつながってると感じてきた人だ。
だれですか?というお問い合わせにもお答えできませんので、ご理解下さい。敬語も略します。
ひとりは、小説を書きながら、庭にトンネルを作っていた。
私は小説とこのトンネルが無縁でないことのものすごさをひしひしと感じた。その粘り、エネルギーの大きさ、評価を求めない潔さ、苦労話を言わないことの偉大さ、そういうものがなにかの塊みたいにぐわっと迫ってきたのだった。
ひとことでいうなら、蒸留されたものとか、真の意味での清潔さみたいなものだ。
もうひとりは、ただ世間話をしただけだった。
しかし、こんなすごい迫力を持った人は、映像で見た川端康成くらいしか知らない、という感じだった。なんだ、この人、すごい濃厚で、研ぎすまされていて、でも子どもみたいなところもあって、「気」が強すぎてまるでCGみたいに見える。そう思った。こんな人が先にいるなら、私もまだまだ進める。
トンネルを見たことと、その人と三十分いただけで、私は立て板に水の占い師が言ったことを全てすっかりきれいに忘れた。
そして、小説書こうっと、ものを書こうっと、と思った。シンプルにそう思った。未来?金?子どもの将来?恋愛?そんなことなんでもいいや。そのときの自分がなんとかやるだろ、そう思った。
それが人生だ。決めるのはいつも自分。
よく知らない占い師にあずけてはいけない、いちばんだいじなものを。


2014年はどんな年になるでしょう。
力まず、だらっと、のんびりと、でも気持ちよい、そんな年にしていきましょう。
対談した齋藤陽道くんのすばらしい写真展(カタログに私の文章も載っています)や、そこで出会った福顔の別府くんのサイト、京都のまゆみちゃんや竹林さんが関わったベニシアさんの本など、今月触れたすてきなものをいくつかリンクして、お別れします。
「九家の書」が日本で放映されることになって、またあのいじらしいガンチやヨウルに会えると思うと胸がいっぱい。今年の私のいちばん泣いたシーンは、ケダモノになってしまったガンチの手をみんなの前でヨウルがぎゅっと握るところ。そのときのスンギくんのすばらしく優しい顔の演技。みんなあんな恋ができたらいいですね!
あとひとこと、清水ミチコさん主催のライブで久しぶりにスチャダラパーを観たら、あまりにも手を抜いていない彼らの人生のかっこよさがにじみでていて、しびれた!昔しょっしゅうライブに行ってた頃よりもずっとかっこよかった。私もあんなふうでありたい。これからも、いつだって。
一年間、ありがとうございました。











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