人生のこつあれこれ 2013年5月
今まで、そのことで外に出ている人も無名の人も含め、人生のほんとうの仕組みに覚醒した人にたくさん会った。
自分はただの野次馬だから覚醒していない、むしろしてない毎日を楽しんでいるなんでもない人間なんだけれど、たくさん会ったからこそ、そうでない人もだいたいどこがそうでないのかわかるようになった。
しかしここでなにが言いたいかというと、覚醒とはなんぞやという話でも、それで得られる利益の話でもない。
見た目の話なのだ。
人生の重要ななにかをつかんだ人はいるだけで気配が違うからわかるし、いくら隠していてもしばらく見ていたら随所に特徴が出るからわかる。
その特徴ってなんですか?と聞かれてもなかなか言語化できない。
ある程度覚醒している人には雰囲気に共通項がある。
妙な深みと、うさんくさいのと紙一重の秘密っぽさなどなど。
でも、見た目のほうはあまりにもまちまちな上に、そのまちまちで個性的な点があえて強調されていることが多い。はじめはそれを目くらましのためにわざとやっているのかと思っていた。しかしそうではないようだ。まるでふるさとに憧れるように、最後に残った人間味を消せなくてどうしようもないかのように、彼らは見た目を変えることができない。
つまり、個人的な欲望やエゴなどをどんどん削ぎ落としていっても、最後の最後にどうしても残るものとは、その人のくせや家庭環境、これまで会ってきた尊敬する人などから派生した見た目の要素だけなのだ。それってあまりにも面白い!
リッチなビジネスマン風だったり、ひげでロン毛だったり、ヒッピー風だったり、漁師風だったり、八百屋のおやじ風だったり、やくざ風だったり(これじゃあみんなだれだか丸わかりか!)…なぜかそのあたりだけはどんなに覚醒してもニュートラルにならないようなのだ。
ならないどころかいっそう濃くなる傾向さえある。
趣味に関してだけはエゴ的なものがあえて残るということだろうか。
そしてそれぞれの方たちのお弟子さんたちも、やっぱりその先生に似たライフスタイル的な特徴を持っている。
ということは、もしかしたら、人類はみなどこか深いところでつながっていても、個々の肉体と人生を持っているからこそ意味があるということをふまえると、人類にとって最も大事なことはその外見に出ているくせの部分なのかもしれない。
だからこそゴスロリとかギャルとかオタクとかレディ・ガガとかきゃりーぱみゅぱみゅを決してあなどってはいけないんだと思う。
そして外見を変えたら意外に簡単に人生が変わるということも、それをふまえて考えたら確かなんだと思う。
珍しく人前に出る仕事をいっぱいした。
三砂アネキとの公開対談、ウィリアムとのトークショー、日芸の入学式のスピーチ。
たまたま重なってしまった。
向いてないし本業じゃないから不器用にてきとうにやっているので、相手の方たちに助けられてばかり。三砂アネキはここぞというときにぽそっと一生残るようなすごいことを口にする達人だし、ウィリアムは怒りっぽいおじいさんだけど(笑)、そういうのを隠さないのがすごくすてきだし超かっこよくて、深いところで優しい人生の達人でとにかくハートがでっかい人だし、日芸の生徒さんは初々しくてかわいいし、全部あっという間に終わってしまった。
むしろその人たちの話を近くで生で聞いたり、かわいい新入生に接することができたり、同時に受賞された森田公一さんとお話しできたりした私がいちばん得している感じがする。
それからさすがに長年やっているとよく会うファンの人というのがいて、私はその人たちの毎日には決して参加できないし、小説家ではない自分は自分のご縁で精一杯だからどうにもしないんだけれど、私の本がその人たちの毎日の中に自然に住んでいる、いっしょに歩んでいる、そのことが実感できて嬉しかった。
人の前で話すという独特の緊張感の中で、互いが知っていることを持ち寄ってセッションし、みんなでなにかを共有している、そんな感じがいちばんいいと思う。
本を売ってサイン会をする前振りのおしゃべりやかたくるしい講義みたいなものよりも、全員がたまたまそこに集って村のたき火の前にいるようであったらいちばんいい。その日はたまたま人生の少し先を行く特技がある自分や対談者が前にいる日だという具合に。
会場を借りるために、私たちが生活するために、そこに料金が派生するかぎりはそんなこと言っていられないのかもしれないけれど、いつか限りなくそれに近づけたらいいと思う。
久留米の下津浦内科に健康診断の旅に行ってきた。
いろいろ年齢なりに弱っているところはあるがまずまずの結果だったし、Oリングテストは正しくできる訓練された人に受けると、ものすごく正確だということもよくわかった。
下津浦先生はうちの夫が深く尊敬する先生でもある。お医者さんとして最も大切なものをみんな持っているほんとうにすばらしい方だ。
そしてなによりも食いしん坊なところがすてき。
初日、ホワイトボードに途中までは肺炎クラミジアの説明を書いているとき、最後の行になったら突然「ところで久留米のおいしいところはですね…まず肉、肉はここです。寿司は間違いなくここがいちばん、それから創作うどんもあります、お刺身は昼のほうがいいんです、市場から届いてすぐだからね、そしてスペイン料理はここ、久留米ラーメンはここ」と店名を書きはじめたときには目が点になった。
私「でも、大腸でひっかかって明日内視鏡なんだったら、今後なるべく肉は食べないほうがいいんじゃ」
先生「いや、今のうちに食べておいた方がいいということです!」
そ、そうかな…。
先生と毎日どこでごはんを食べるべきかミーティングするのがいちばん楽しかった。
内視鏡検査の直後にお刺身を食べに行こうと誘われたときにはさすがの私もちょっとだけ負けそうになった。でも、負けずについていった!
そして先生が翌日また説明の途中に、病院の窓の下を通りかかったわらび餅屋の声を聞いて、
「とにかく追いかけてください!すぐ行ってしまうから!」と職員さんに指示を出したときにはほんとうに驚いた。
あんなふうに生きていきたい…、そのためにも健康でいたい(?)!
私の腸はほんとうにきれいだった。便秘しないのが自慢なだけに腸壁が生き生きしていて、言いしれない美しい色をしていた。自分の腸に恋してしまうくらいに繊細な輝きを放っていた。取ったポリープも小さくて見るからに良性。
人間の体ってほんとうにすごい。こんなストレスフルな毎日を送っていても、ちゃんとあんなふうにひそかに働いて生き生き輝いているなんて。
四十八年もいっしょに歩んでくれた体に対して感謝いっぱいになった。
久留米もすばらしかったし、湯布院も、大分もほんとうに食べ物がよく気候もよくって、人々も親切で、九州ってほんとうにすばらしい。
天草の血が騒ぐからなのだろうか、九州のあの独特の夕方と山々を思い出しては、博多っ子純情(子どものときほんとうに大好きな曲だったので、千代インターで降りて春吉橋を渡ったときには泣きそうになった)を口ずさみ恋しく思う毎日だ。
活気だけは人間にしかつくり出せない。
そういう意味で、これからは地方の時代だと思う。
自然のすばらしい風景が手伝ってくれてこそ、人間も自分の人生を楽しいと思う、そういうことが地方に行くとあちこちで見られるようになった。
どこに行っても物産市はにぎわっているし、口コミでブレイクして日本中からネット注文が来たり旅人が来たりするから、本気の人たちはどんどんやる気を見せている。地方の大都市の駅前は調布あたりとなにも変わらないくらい栄えている。
比べて東京はなんだかどんよりしんなりしていてちょっと淋しい。私は東京がふるさとだから、活気が戻ってくるといいなあと思う。マニュアルを超えていく子がたくさんいて、それを認めてあげる楽しく正しい大人がたくさんいるといい。
月末に少しだけ韓国に行った。留学中の友だちに会いにみんなが少し日にちをずらしながらも集ったので、いっしょにごはんを食べたり買い物をしたりして、比較的のんびりした。
明洞からちょっと離れたホテルに泊まり、朝起きてホテルでごはんを食べずに、坂道を降りて明洞に出るのが、仕事がないこののびのびした旅のお決まりコースになった。
車も多いし、空気も汚れている、観光地ではないからごみもいっぱい出ていて、そりゃあそんなにいい雰囲気なはずがない。
なのになんでだろう、韓国の朝は、それが休日だからではなくてとにかくわくわくする。
みんなが一日を始める活気があふれていて、空も風も山もみんなきらきらしていて、なぜかちょっと楽しくなってくる。日中は熱いし夜は涼しいけれど、湿気がないからさわやかさがある。気候がいいってものすごい強みだ。冬は凍るほど寒いけど湿気がないからやっぱりすかっとする。
でも空港に行くといきなりがっかりする。
激しい物売りとおいしくないレストラン(ごめんなさい、空港職員の方たち)。
世界中の空港がたいていそうだから空港はしかたないと思うけれど、ほんとうに正直に言うと、東京の飲食店のレベルは空港並みだと思う。私もいつの頃からか飛び込みならはずれて当然ということを受け入れるようになってしまっている。
おいしくないものを食べると、細胞ががっかりする気がする(ここまでなのは私だけ?)。
いいお店がいっぱいある代わり、だめなお店も多いような気がする。
食べ物ではそうとう高レベルの久留米、日田、博多のあとだからいっそうそう思うのかもしれない。
韓国のすごいところは、若者向けのいいかげんなお店でも食べ物のレベルが高いところだ。いったいなんであんなことになったんだろう?
このあいだ泊まったパークハイアットソウルなんて、サービスはぐだぐだだったのに飲食店のレベルはものすごく高くてかなり混乱した。
「外でお金を払って食べ物はおいしくて素材がいいに決まってる、そうでなかったら家のほうがずっとおいしい」みたいなことなんだろうか?韓国にもだめなお店はいっぱいあるけれど「安いなりにうまいもの出してもうけてやる」「金を取る代わりに絶対満足させてやる」「うまいもの作れる奴になってステップアップしてやる」みたいなアグレッシブな姿勢がそこここにあふれていて、なにかがちょっとだけ違う気がする。
食いしん坊の私としては、そのへんはずっとこだわっていきたい。
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