人生のこつあれこれ 2013年2月

子どもが誕生月でカニを食べたいっていうので、カニばかり食べていた。
カニバリズム…
とか言ってる場合ではなくって、いろんなカニを食べた。
カニを食べながら、子育てしてきたこの十年について考えた。


ところで私は昔うぶだった頃カニ屋に「自分は明日首をつって死ななくてはいけない」とだまされて数千万円奪われたことがあるので、カニには思い入れがある。ちなみにそのカニ屋で食べたカニが生涯でいちばんうまいカニだったと亡き父が言っていたので「数千万円のカニ」として我が家では伝説となっていた。
しかも噂の真相に「数千万貸せるなんてよしもとばななには余裕がある」って書いてあったけど、余裕があったんじゃなくて、泣き落とされたのだ。カニ屋を担保に借してくれと言っていたが、ふたをあけたらカニ屋は賃貸で担保も何もありゃしなくて、金を貸す前にもっと調べろよ、俺、と今の私は昔の私に思う。
その人は自分の税理士だったんだから、全資産を知っていて借金を申し込んできたわけで、もうこだわりはないけど、なんちゅうかせこいことしよるな、プロじゃないよなあ、と今でも思う。
当時すでに年老いていた彼はもうこの世にいないのだろうか。
借金を抱えたまま逃げたな、という気持ちをどこかに残したままで老後をまだ送っているのだろうか?
まだちょっと憎たらしいけど、後味が悪そうで気の毒である。
私は自分のために「もう返さなくていい、忘れてくれ」と彼に手紙を書いたが、そうは言ってもきっと彼の心の中の罪は消えない。数千万よりも重いことだ。
私は数千万を軽く見ているのではない。実際、今もしあのお金があったら、これができる、あれができると思うときだって人間だから当然ある。軽く見ていないからこそ、死ぬときに「自分はだれかをだましたことがあって、それが解消されていないままだ」という気持ちはそのくらいひどく重いものだと思うのだ。
うちの父のように清々しくは死ねないだろうと思うと、やはり気の毒である。
だから私はもう人に絶対金を貸さない。借りようと思っている人がいたら、あきらめてほしい(いないか!)。
私が金を貸したおかげで、彼が清々しく死ねなくなった。この重みはだいじにしようと思う。相手を思うなら、確実に返せる状況の人にしか貸さないほうがいい。
それから金を人に借りるなら、返すことだけのために生きる覚悟が必要だ。それはそれは厳しい覚悟で生きた心地はしないけど、無になってがんばって返したときの達成感と言ったら、もう飛び上がりたいような気分だ。
なによりも自分にすごい自信がつく。
好きなことをしたい、いやなことはしたくない、なんて言っていると、好きなことの幅がどんどんどんどん狭くなってくる仕組みが人生にはある。
けっぱれよ〜というふうにできているのが人間だと思う。
いやなことをただいやいやしている状態というのと、いやなことのなかになんとか一個でも面白みを見つける状態は明らかに違う。前者は停滞であり、後者は活動である。
活動していないと人間は死んでしまう。心臓が活動しているから今生きているわけで、活動は人間の原則だ。
だから活動によって引き延ばせる限界を延ばすことが、人生の喜びなのだ。
私の読者の方には電車に乗れないという人がいっぱいいる。
私だってそういうときがあったから、よくわかる。ちっともおかしいと思わない。当たりまえだと思う。人間は本来知らない人とごっちゃになってA点からB点まで輸送されるようにできてないのだ。牛じゃないんだから。いや、牛だってほんとうはそうなんだ。で、そのことをどこかで知っているからこそ、みな自分をごまかして目をつぶってなんとか乗っているわけで、そのことにうすら気づいてしまって融通がきかなくなってしまうのは当たり前だと思うのだ。
一駅でもうぐるぐるのゲロゲロによくなったものだ。しかし、先を見たい、という気持ちだけが一駅を延ばす。いつしか急になんでもなくなる日が来る。
まあ、別に延びなくてもいいのだ。
ただ、あの場所に行きたい、だから限界を延ばしたい、という方向に気持ちを持っていけるように、いつかはなると。あるいは電車なんて知らん、歩いてやると。稼いでタクシーに乗ったる、あるいは自転車ならどう?と工夫してみると。あるいはひとりでなければ行けるから、だれかについてきてもらう、とかね。解決を考える生き生きとした心、それこそが重要なのだ。
そうやって延ばした一駅は、世界一周くらいの価値があるような気がする。
 

この十年の間に親を失うんだろうなっていうことは、子どもが産まれたときからわかっていたから、会わせるときは常に一生懸命だったような気がする。さあ、味わって、この時間を!みたいな。
でも、今になって「どうしてもっとてきとうにふんわりできなかったかな〜?」と少し後悔している。
そのときはそのときで必死だった自分を責めたりはしない。
でも、一瞬一瞬を味わおうとすることは、しがみつくってことで、よく桜井会長がおっしゃっているように、しがみついちゃだめなんだ、とほんとうに今ならわかる気がする。
力を抜いてふんわりしているからこそ、いろんなもの(運とか奇跡とか)が入ってくることができるんだ、と思う。
一瞬と一瞬の間には、異様に大きな隙間がある。
力を抜いているとそれがたまに見えることがある。
あの、交通事故や高いところから落ちるときに全部がゆっくり見える感覚、あれがいちばん近いけれど、危機的じゃない状況で見るそれは、もう、ほんとうに広大すぎてびっくりするくらいの空間がある。
これがいつも見えていたら、取り放題のやり放題だな、と私は思うけれど、欲があるとさっとその空間は消えてしまうのだ。
そこで大きな鍵となるのが、身体である。
おなかの下、いわゆる丹田のあたりに太陽みたいなものがあってぽかぽかしている、その感覚があるときが、瞬間と瞬間の隙間を見ることができる絶対条件だ。
武道の人がよくこういうことを言ってるけれど、文学からアプローチしても、ヨガでも、大富豪でも、麻雀でも、学問でも、どの道を通っても人間はみなここにたどり着く。
すっごくすてきなことだと思う(異様に軽いオチだな)!

 
私がこの半年、はげそうになりながら字数を重ねてきた長編のタイトルは「サーカスナイト」だった。
リードの部分にはもちろん七尾旅人さんの詞が載っている。
許可を取るにもまあ近所の人だし、ほとんどの友人知人が彼の友だちだし、とたかをくくっていたら、ぎりぎりになって意外に連絡が取れず、Twitterなども駆使して七尾さんとやっと連絡が取れた。
快く許してくださったので、枕を高くして眠れる!
いつもの話が長くなっただけの小説なんだけれど、楽しみにしていてくださいね!
その快く許してくれ方の感じのよさといったら、もう、信じられないくらいだった。
さらにライブに今夜来ませんか、と招待してくださったので急きょ走っていった。
彼のライブはいつも、歌というものがそもそもなんであるかというのを人間に思い出させるような迫力に満ちている。恋する人を想うときに突然出現するあの強大なエネルギーを声と歌詞に載せてリアルタイムでぶつけることのできる彼。今の時代に起きていることを確実に音楽に変えて、心を波立たせる彼。震災にしみじみと本気で寄り添ってきた彼。
ライブ歴がむちゃくちゃ長くとにかく回数が多く場数を踏んでいるので、とにかくライブが分厚い。
今日はめったに聴けない彼の歌が聴ける!という要素で人を呼んでいるのではない。ライブ数が多いから、そういうチラ見せ営業を一切ぬきで、ただただ歌い続けている。
吟遊詩人ってきっとこういうものだったんだろうな、と思う。
人生にこの夜は一回しかない、だから生きるということを味わってほしい、それを伝えるために、全ての創作家はわりの合わないむちゃくちゃな力技を使って、創作しているのだ。
ゲームをしていて会場を追い出されたうちのチビは偶然に飴屋家のおじょうさんにめぐりあって楽しく遊びながらライブを観たし、たまたま勝俣くんと早希ちゃんも来ていたし、後から夫もかけつけて来たし、国東でちゃんとあいさつせずに別れた飴屋さんをしっかりハグして、奥さんのコロちゃんの美人ぶりを胸キュンで眺めることもできたし、飴屋家のおじょうさんが失くしちゃった芋虫のぬいぐるみをみんなで探して、結局うちのチビが見つけて、芋虫のパパとママになろうってプロポーズされて、みんながそれににこにこして、仲良くラーメンを食べて、いっしょに電車に乗って帰った…その全部偶然の、待ち合わせしてても会えないような人たちが一堂にかいしたあの温かい夜の流れは、七尾さんの音楽が守ってくれていたからありえたんだな、としみじみ思う。
音楽の力、絵の力、小説の力、陶芸、建築…その他たくさんの、全てのジャンルで、それから各自が生活スタイルで表現する様々な奇跡の力…アートの力は、そういうものだ。
というか、それが、アートだ。
エキセントリックな生き方のことでもなければ、名刺に「アーティスト」と書くことでもなく、おお売れして世界ツアーをすることでもない。
無条件で人に力を与える。この世のほんとうの仕組みをかいま見せて、悩みを消す。愛の力をそのまま込めて、勢いで気持ちを切り替えさせる。自分個人の何倍もの力で人々の生活をはげます…ことができる。
みんな生活の中ではきゅうきゅうして、現実に打ちのめされ、苦しみ、嘆いている。しかし、はげまされたらこの世の大きさや宇宙や命の力を思い出してがんばれる。
そしてはげまされた人々は、それぞれの現場でその力を愛する人々に分ける。
そんな魔法こそが創作というものだということを、思い出すべき時代になってきたみたいだ。
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