人生のこつあれこれ 2012年12月

去年ウィリアムに会ったら「来年はものすごい年になる。考えられないようないろんなことがある一年になるけど、全部を個別にポジティブに乗り越えられたら、かなり健康になると思うからがんばって」みたいなことを言われて、いったいなにが起きるのかドキドキしていたのだが、ドキドキを超えてもうどうでもよくなっちゃったというレベルまでいろんなことがあった!ポジティブだったかどうかはわからないけれど、やけくそではあった。
来年もいろいろあるだろうと思うし、それに私は不幸なわけじゃない。もちろん人生面白おかしくない面倒なことでいっぱいだが、それでも精一杯幸せであろうとして生きている。
体が動いてごはんも食べられるだけですごく幸せだと思う。
いっぺんでもそれができなくなった経験がある人は、それから私みたいにむちゃくちゃ体が弱い人は、そのありがたみがしみているので、たいていのとき幸せでいられる。
それに、親が死ぬことはこの世のだれにでもやってくる。
亡くなった大好きなるなちゃんだって、別に不幸に死んだわけじゃない。もちろん若く亡くなったのはとても残念だけれど、長生きすりゃいいっていうものでもない。るなちゃんの人生はだれに恥じることもない輝かしいものだった。
たしかに愛する人に会えなくなるのはつらい。直接愛の言葉をかけてもらえなくなるのは淋しい。でもだからこそ、生きてる人どうしはだれかを亡くしたことを話したり書いたり、ただそばにいたりして、同じ経験をした友だちとも見知らぬ人ともその体験を共有したりできる。
それから、もう長くないとわかっている人と過ごした経験は、全ての人に対して人を優しくする。
大人になるってそういうことだ。
生まれてくる子たちも満載、死んだ人も累々。だから深まっていくし、自分の容量もおのずと増えていく。智慧が増していく。
この新しい体験の中で私がまだびっくりしているのは「両親の家」がたった数ヶ月以内のうちに「姉の家」になったことだ。
遺品がたくさんあり、インテリアもあまり変わっていないのに、私が高校と大学時代を過ごした家は、今はもう姉による姉のための生活が営まれ周辺も姉の友だちで構成されている姉だけの家で、姉に会いに行くための家。
今の私はそのことを普通に受け入れている。
それがいちばん不思議だった。
人間の慣れることができる巨大なキャパシティを考えるとこの世に限界はない、とますます思える。
ここはとても肝心。
今の生活の中でやっていることを自分が慣れて受け入れているだけなのか、好きでやっているのかの見極めはどんなにわかっている人にもかなりむつかしいということだ。
慣れているから受け入れてしまっていることの中に、人生を変える秘密が潜んでいる。
あくまで、もし変えたければだけれど。
満員電車、いやいや出る会議、ローンで買う家、いつもの飲み会、汚い部屋、スナック菓子、夜更かし、飲酒、喫煙、肉食、ジムでの運動、友だちとばくぜんとおしゃべり、だらっとTVを見る、ライブに行く、踊る、バックパックを背負って旅に出る、最高のレストランで食事…もしかしたらそんなことかもしれない。
それが楽しいに違いないという状況に慣れているから楽しいと思っていることがそうとう多い気がする。
それは、自分が楽しいと思うことが全く楽しくないと思う他人がいると、ますますはっきりしてくる。
でも、それに全部気づくと収拾がつかなくなり、空き時間がいきなり不安になるのも人類だから、バランスがむつかしいのだ。
その人固有の「最高に楽しい、すごくリラックスしてる、このために生きてるのかも」と思っていることは、だれしも、囚人がお風呂や食事やTVを生きがいにして一日一日を生きている…そのことと、あんまり変わらないのかもしれない。慣れているからその中で楽しいと思っていること。いやいや、自分は違う、犯罪をおかして自由を奪われている人たちといっしょにしないでくれ、と心から言える人はほんとうにいるのだろうか?自分の人生を枠の外から見るきっかけは臨死くらいでないとなかなか訪れないけれど、一度見てしまうと、からくりがわかってびっくりすることが多い。
私の母は、持病のぜんそくの発作が起きないようにと常にものすごくそうじをしていて、旅館に行くたびに部屋を全部そうじして床も拭いてダニアースをばらまかないといられなかったし、荷造りもきちんとしないなら出かけないというくらいにていねいにやっていた。まあ、それに家族を巻き込まなかったら別にいいんだけど、必ず家族を巻き込むのが問題で、全員が苦行と思うような時間をたくさん過ごした。
しかし晩年は寝たきりであまり歯も磨かず着替えもまめにせず風呂も入らなかった。それでもちっともぜんそくにならなかったし、わりとのんびりしていたしにこにこしていた。
だとしたらあの苦行の時間をもっと楽しくしたらよかったのになあ、と私は単純だからすぐ思ってしまう。
まあ、こういうことこそ、単純でいいんじゃないかという気もする。
私の場合を申しますと、死にかけなかったらわからなかった枠の外体験、筆がまだついていかずに、いろいろ試行錯誤して作品にしようとしているところです。せっかく多少の才能と書ける技術を持って歩んで来たので、このことをできるかぎり表現していこうと思っています。
日常の中では、やらなくちゃいけないことを優先しないで、楽しいことをほんのちょっとでも優先しようと思うようになった。
さらに、楽しいことをしながらも、楽しいという抽象的概念と最も遠い地道な形で体を動かすのがコツ。
そうするといきなり流れができるから、驚くことが多い。
そのほうが、後回しにしたことの不義理を取り戻せるチャンスも必ず来るから、結局時間の得になる。
あと、その場に参加したからには文句を言わない心構えもとっても大切と思う。
私は大勢が来る家で育ったから、集まったらとりあえずなんか飲んで食べようか、というのは一生治らないし治さなくていいなと思っているけれど、たとえばうちの夫みたいに静かな家庭の一人っ子にはそれが苦痛な場合もある。
その違いを恐れないこともだいじかもしれない。人に押しつけないことも。押しつける場合は愛をもってただちょっと勧めてみることとかね。
いつのまにか巻き込んで疲れない程度に抜けてもらうとかね。
あと、自分が苦手なことを押しつけられた場合にそっとしかしきっぱりNOを言う勇気とかね。
でもこれがまた、ちょっとしたくないことにいちいちNOばっかり言っていると、全然キャパシティが広がらない人生になって行き詰まる。同じメンバー、同じ会話、ちょっとした刺激、そしてまた同じ日々、という感じで十年はあっという間につぶれる。同じメンバーで安心して集うためにそれぞれが旅に出て話を持ちよらないとなにも動かない。
例えるなら、わざわざバリに行ってハエがいやだからごはん食べれない、と言うとかそういうことになる。で、殺虫剤バリバリの人工的なホテルに行ってバリ楽しいなって言っても、景色はプーケットもモルジブもハワイも変わらない、プール、ビーチ、ピナコラーダ、みたいな退屈なことになる。
それでいい人は全然それでいいとも思う。
穏やかに過ごして死んでもいい人、枠の外なんて見なくてもいいという人もたくさんいるけど、それはそれでいいと思う。
私だってなんだかんだ言って、生きているだけで嬉しいから、その気持ちもよくわかるから、全然否定できない。
人は自由で、責任は自分ただひとりがおうのだから。
私にとってはその枠について、枠を壊すとどうなるかについてなどなど、ただ探求するだけでとにかく人生は忙しい、ぐずぐずしてるひまはない。
で、話は戻って実家に関して言えば「そりゃあ親が永遠に生きてくれて、ずっと実家があればいちばんだけど、こうなっちゃったら姉には楽しく暮らしてほしいからもう慣れた」がいちばん正確な表現だ。
今の私には、お年寄りがボケて「家に帰りたい」という気持ちがほんとうによくわかる。
私が帰りたいのは、今姉の家になった実家ではなく、昔住んでいた、となりに幼なじみの植松さんがいた、千駄木の家なのだなあと思う。私が子ども時代を過ごしたあの家。
だから私にはもう実家がない。
最愛の家族である姉の家が新たに生まれただけ。不思議…。
そんな実家から、ひとつだけ父の形見にと、祖父が作ったというタンスをもらってきた。生前からもらう約束をしていたものだ。ダンベルとか血まみれの手帳とか虫眼鏡とかはもらったけど、大きなものはそのタンスだけ。
はじめはうちにそれがあるのを見るたびに悲しかった。
「ええと、これがここにあるってことは、お父さんは死んだんだな」
と毎回びっくりしながら思ってしまうのだ。
でも、今はタンスを見るとなんだか希望がわいてくる。
真冬のひどい雨の日だったのに、はっちゃんと夫と、さらに腰が痛かった石森のおじさんと、父方のいとこがみんなでそれをちょっとずつ手伝って運んでくれたこともあたたかい気持ちで思い出す。
力強いもの、今、新しい時代の思い出がそこにあるんだなあと思う。
生きてる人は、他の生きてる人のためにまだ生きるのだ。
るなちゃんのママと電話で話していたら、このようなことを言った。正確に覚えていないけれど、だいたいこんな感じ。
「去年の今頃はここにいたのにな、と思うとたまらなく淋しくなりますけどね、でも泣こうがわめこうが暴れようがのたうちまわろうが、もう帰ってこないんですからね、しかたない」
とても明るい声で。
でもこれは泣いてわめいて暴れてのたうちまわったことがある人だけが、はじめて明るい声で言えること。
同じ気持ちを味わった人たちには、そのことが声の調子だけでわかる。そういうことだと思う。



かなり自分が甘かったな、と認識したのは、本格的な不況になったら出版社が作家を切り捨てはじめたことだ。作家というとちょっと語弊があるか…。
出版社が文化を切り捨てはじめたことだ。
これは「出版社」と「文化」をいろんな言葉に置き換えることができて、今、あちこちで起こっていることなんだと思う。
恨み節とか「あんなに出版界につくした私をなんとかしてよ」という話ではなく、つまり、不況はそこまですごくなっているんだなあっていうことだ。
これが遠くない未来の食物飢饉に及ぶ前に、なんとかしなくちゃいけないんだろうと思う、人類は。現代の技術があればなんとかできるはず。
不況になるといちばんに文化をカットするのはアメリカの出版社と同じやり方で、ここまで日本はアメリカになってるんだなあ、としみじみと思った。

そこで少し考えた。
自分の事務所の収支もシビアになってきているので、数人の人のお給料をこれまでの「共産主義的どんぶり勘定」から「能力と時間に応じて少し変える」に若干修正したとき、私には同じような気持ちがなかったか?
私の気持ちとか好みとかひいき目ではなく、純粋に能力で判断できているか?
結論としては、もっともしたくないことは「クビを切ること」。それをしないための考え方だったので、自分では「よし」と思った。
じゃあ、自分が今「かろうじてクビを切られないだけの状態なのか?」と言われると、してきたことはそこまでひどくないと言い切れる。だからこそ、このままではいられないとも思う。

私はいい時代に育ち、牧歌的なものを信じてこれた世代なんだなあと思った。
さしさわりのない例えを言えば、父の晩年には放っておいても全集くらいは出るだろうと思っていた。
やりたいという編集者はいたし、目次まで編んでいた。
でも予算がどこにもないって言うわけだ。どの会社にもないと。
そのとき、出してはくれなかったけど(笑)、超忙しいのに担当者に押しつけずにたったひとりでやってきて快く相談に乗ってくれた文藝春秋社の平尾さんにはもちろん感謝している。だからあの会社に平尾さんあるかぎり、縁をつないでいこうと思っている。困ったときに面倒がらずに相手してくれた人に人は義理を感じるのである。それはあとで本人に有形無形の形で返ってくるものなのである。
いろいろこの世の全集事情を聞いてみれば、たとえば石原元都知事の選集だか全集だって、無条件では出なかったという。
私はあの方を応援はしていないけれど、それにしても、作家で政治家という特殊な人生を歩み、作品のクオリティが高いのだから、とりあえず残しておこうという動きは文化にとってはあたりまえの構えだと思うのだ。
だれかが生涯をかけて仕事をしたから、それをいったんくくっておこうくらいの予算がないなら、いっそもう出版という事業自体がこの世になくてもいいんじゃ…。
まあ、慎太郎さまでむつかしいなら、父なんてもっとむつかしいだろうと思う。
もっと言うと、全集なんて出なくても私は別にかまわない。
父の仕事は全集があるかないかで判断されるものではないし、父の人生は父の仕事よりもずっと大きなものだったからだ。その大きさは個々の人物に及び、受け継がれていくのだから、別によい。
にしても、手っ取り早く売れそうなものははりきって出すのに、選集とか全集とかいう売れそうにない話になるとみなそうっと抜き足差し足で逃げていくあの感じ。
それじゃあ、大発展の余地は生まれるはずがない。安全パイの中の小さな揺れがあるだけだ。「ワンピース」がそんなに人気なかったからって一巻で打ち切っていたら、「ジョジョの奇妙な冒険」が最初全然紙面になじまなかったからって第一部で終わっていたら、今頃集英社はどうなっていたのだろう?荒木先生が東京に出てくるのを「リスクが高いからやめてください」なんて言っていたらどうなっちゃっていたの?
そんな手っ取り早くない判断&投資を企業がしたから、今があるのかも…。
とにかく作家、アーチスト関係から聞く話は、親が不動産を持ってるとか外国籍だとかフリーメーソンにでも入ってない限りは全部閉塞感でいっぱいで、いろいろな人の本を出版する話に関しても「気持ちは出したいんすけど、ぶっちゃけ会社つぶれそうっすからムリっす!」程度に正直な人さえいない。
いい感じ〜のことを言って、手は汚さないが、動きもしない。
その様はやくざよりも汚く、金貸しよりも非情。金貸しに聞いたら「子どものいるうちに取り立てに行くのはいちばんつらいけど、もっとつらいのはそれを知っててわざと子どもを電話口に出す親だ、自分が借金作ったくせにそんなことをするのを見るのがいやだ」と言っていたから多分間違いないだろう。
とにかくあの表面は優しいいい感じがどうにも合わない。
企業は文化を守るために芸術に投資するものだと思っていたのは、わりと経済上り坂の時代にある海外、主にヨーロッパやユダヤ圏、経済成長中のアジア諸国との仕事に慣れすぎた私の甘いたわごとだったんだなあと思う。
「そんなこと言ったって、よしもとさんは売れてるからまだいいでしょう」とよく言われるが、そんなことはない。私レベルの知名度でも小説だけで食べて行けるほど書くのは至難の業だ。
ただただいい作品を創ろうと思い、さまざまな仕事をセーブして小説一本に操をたてていた私、いろんな場所で低賃金でも心をこめて働いていた私だが、全く文化が守られる気配がないばかりか「食事ならいくらでも高いところでしてもらっていいけど、取材費は一切出せない」とか「低予算でできることならいくらでもやってもいいが、そうでないと上からお金が出ないので」とか「できれば無料でお願いします」とか「大量に売れない本を作るのはやりがいがありますが、大量に売れないに決まってるから、ギャラはぜひこのくらいでお願いします」とか「原稿もらったけどまだ読んでません」とか「忙しくてゲラを見せないでつい黙って出版しちゃいました」とか「これから依頼しようと思ってたので、次号広告に名前載せちゃいました、すいません、今からお願いしま〜す」とか「字が小さくて面倒だったからゲラ見てませんでした、ごめんなさい」とかいうおもろい話ばかりで、売ろうとか、広めようとか、ただでもやるけど必ず回収するとか投資してみようという情熱的な感覚がゼロだ。
これじゃあ、現場の人たちは中場利一さんにいちいち蹴られてもしかたないと思う…。
ということなので、普通に出版社以外の企業や海外の出版社と仕事をすることも来年はやっていこうと思う。知っていることを人に伝える仕事もしたい。
昔、ベネトンの広告の仕事をして、ルチアーノさんと現場に立ったことがあるが、そのシャープさときたら、目が覚めて気持ちが明るくなるほどで、日本の現場が悲しくなった。
日本のスタッフがなんとなく立って見ていたり、むやみに名刺を渡し合ったり、うわさ話をだらだらしたり、やたらにぺこぺこしている間に、ベネトン側ではメイクも写真もライターもスタイリストも目をキラキラさせてサクサクサクサク動いていた。一目その人を見れば、どういう生活をしてなにに対する感性が際だっているかすぐにわかった。
彼らは仕事をさくっと終えたら、それぞれのしたいことにまっすぐ帰っていく、そのことまで理解できた。オタクはホテルでパソコンへ、踊り好きはクラブへ、買い物好きはショッピングへ。そしてそれがそれぞれにとって寝なくてもしたいことだから、翌日もバリバリ働く上に全部が仕事に直結しているのだ。
それを友だちに言ったら、
「あんたは本当に外国が好きね」
と言われたが、そうじゃない。
いや、もしかしたらそうなのかもしれないが…。
私の育った頃の日本は、公害もすごかったし、汚職もハンパじゃなかったし、いいところばかりではなかったが、少なくともほんとうに好きなことを持っていた人が多いし、それを助け合いで人に分けてあげる人も多かった。そんな時代に育っているから、今の雰囲気になじめないだけかもしれない。
優れたものが好きなのだ、気分がいいから。さわやかだから。
優れていないものが好きじゃないのだ、だらっとしていて、もやっとした気持ちになるから。
私の優れてないところを、その面で優れている人がさっと補う。人と人は補い合って、調和のとれた円ができる。もちろんそこには愛がいっぱいある。相手の弱さを許す愛や、作品への愛、その現場への愛。
すると最短の美しい形で発信される。それが仕事の本質だと思う。
森先生もよくおっしゃっていたが、出版社はマスオさんが働いていた時代のままで営まれているから、不況になったらへろへろになっちゃったのだ。
もう日本の経済はあかんとなったら、もちろん海外企業の広告収入だってへるけど、それで困ってる人もいっぱいいるだろうけど、そんなの前からわかってたことだ。
つまり私も含めて危機感がゼロ。そりゃあ、Amazonに参入されたら負けるよね…。
その牧歌的なところが日本らしくていいといえばいいけど、他国に搾取されほうだいといえばされほうだい。
多分長丁場になるし、下手するとそのまま自分自身を丸ごと輸出しなくちゃいけないのでたいへんだが、これはもう、日本が日本の文化を守ろうとしないのが悪いので、しかたない。
あれこれ言っていてもしかたない。ただやるだけだから、別に悪口ではない。
死ぬときに後味悪い死に方をしたくないので、気持ちよく生きるだけだ。
ただただいいものを創り、認められずに死んでいった人はたくさんいる。
ほんとうに、たくさん知っている。
そういう人たちを、ぎりぎりのカツカツでもそっと密かに支えていた出版社があった時代も知っている。
今はそういう時代ではないようだ。
私はもの書きとして必ず生き延びようと思う。
もう時間がないのだ。この世を少しでも変えないと。日本をとれもどさないと(笑)、
日本のよきところはほとんど絶滅しそうだ。いいところがたくさんある国なのに。
せめて日本の良さを自分は伝えていきたい。世界に、次の世代に。
もちろん、個別におつきあいしている編集者の方たちはほんとうにいい人たちだし、常に作家と会社の板挟みに苦しんでいるし、だいたい彼らにはお金を動かす権限がないので、全く恨みはないです。みんなを愛していますし、まだまだいっしょに仕事をしていきたいです。
でも、私が日本にいる時代ももう最後の秒読み段階に入っているような、そんな感じがする。できれば日本にいたいし、日本を好きでいたい。だから最後のがんばりを、小さな力だけど、力を抜きながら、鼻歌な感じでやってみよう。
 
 
 
兄バイスをもらったお礼に、兄貴(丸尾さん)に会いにインドネシアに行った。ただお礼が言いたかっただけだ。お小遣いがほしいとか土地ちょうだいとか土地買うから家建ててとかどうやったらお金が増えますか?教えてとか、そういうのでもない。
お礼に行くのだから世話になるつもりはなかったのに、クロちゃん(報酬はハンバーグ一個だけなのに)と川口コーちゃん(報酬は錦松梅一箱だけなのに)の力で、すっかり移動や宿の手配をしてもらってしまい、たいへん世話になった。
私は下町だから、昔風の暴走族とかやくざの事務所の人たちがいっぱいいて、それはそれは頼もしい環境だった。血とかケガとかはよく見たけど、それをおさめるすごい人って言うのが必ずいたから、安心できた。私はオタクなメガネっ子だったけれど、みんな優しかった。
女性は女性らしくあるのが仕事で、あとは男の人生とネットワークに対してよけいなことを言ったりしたりしないのが原則で、絶え間なく体を動かしてしっかりしていれば、そしてそれぞれの形で(リーダーの女は色気や愉しみで、リーダーの部下の妻は部下を支えることで間接的に)ついていける人徳を持つリーダーに力を与えてあげられれば、なにも問題がなかった時代の人間だ。
だからその原理で回っている雀鬼会とか和僑とか、とっても懐かしい。
…っていうかただ生きてるだけでやくざ似(似って!?)のお友達が増えていくのはどうしてなのだろう。それほど時代は世知辛いということなのですね。
兄貴のなにがすごいのか、実際会ったらよくわかった。
楽しくないことでも意地でも楽しんでいるし、楽しくないことと楽しくないことの隙間にちらっとでも楽しいことがあったら、ぐっとつかめる人なのだった。勘がすごくて絶対におかしなこと言わないのに、押しつけがましくないし、どんな人の言うことも差別しないでちゃんと聞いてる。いつもちょっぴりだけ眠そうなのが超かわいらしくて、それなのにばりばり動いてるところがかっこいい。
兄貴の言ってる面白いことにちほちゃんといっしょに涙が出るまで笑い合ったら、心の中の暗いことがみんななくなっちゃったからありがたかった。
人はみな小さい頃から親の影響下にある。
親と同じくらいの生活ができるようになるために、その生活レベルに合った常識を身につけるように暗黙の押しつけで洗脳されている。
たとえを言うと、レストランでどう振る舞うか、とか、父親の上司にどう振る舞うか、とか、近所のおばさんになにを言ったらうわさになるかとか、そういった細かいことだ。
兄貴の生い立ちは決して幸せなものではないが、そのおかげで彼にはリミッターがもともとなかった。それがどんなにすごい結果をもたらすか、兄貴を見たらよくわかる。
小さい頃から「早く寝なさい」「野菜を食べなさい」「朝は起きて仕事に行きなさい」というのが洗脳レベルでしみこんでいないということは、すごい強みだったと思う。
そんな兄貴の作った世界は、永遠の夏休みみたいな世界だった。
いつでも家には人がいて、寒くなくて、生き物がたくさんいて、そこに行けばだれか知ってる人がいて、おなかが減ればなにかが食べられて、兄貴の存在に守られている。
もちろん大量のお金を扱う施設だから、警備もすごいし、緊張感がある。
でもその緊張感があるからこそ、家の中の結束感、くつろぎ感も増すものだ。
私はうちの父に会いに毎夏土肥に来ていた人たちがなにを求めていたか、思い出せたような気がした。家族が、親のように自分をちゃんと見てくれる人が、くつろぎが、人間関係がほしかったんだね。
やっぱり人間は自分の思うようにしていいし、集中すればなんでも実現できるのだ。集中できないのは、幼い頃から親や社会に限界をもうけられているからなんだ、ほんとうは人間って計り知れないすごいものなんだ。
やっぱりそうなんだ、と私は素直に思って、自分の小さいところとかこだわりをますますはずしていこうと思った。兄貴を見たら、そのことがほんとうに確認できた。
兄貴に相談している男たちは兄バイスを聞くたびにみんな目がだんだんキラキラしてきて、子どもの頃にそうだったはずのその人たちに戻って行った。毎日それを見るのがすごい幸せだった。
この世でいちばん強い結束は男が男に惚れるときだろうと思うから、それを見ると元気が出てくる。男たちは外で遊んで来なさい!思い切り!と思う。
バリの自然は朝から晩までどかんどかんとやってくるから、いつでもエネルギーが補充されて寝なくてもあんまり疲れないし、細かいことを考えなくても生きていける。牛と鶏の声で起きるのは楽しい。人の声が歌うコーランをBGMに寝るのは幸せだ。
やっぱり人間はケモノを失っちゃいけないし、かといってケモノになっちゃいけない。知恵を使い、体を保ちながら、毎日毎日バランスして限界を超えていく。
基本と言うか原点はそこだと思う。
兄貴だって私だって敵はいるし、だまされたとか裏切られたとかいう人だって満載だ。
でも、そんなの生きていたらあたりまえのことだと思う。
そんなことを細々考えているひまがあったら、動いて、たくさんの人に会って、笑顔を増やして、お互いに活気をつけたほうがいいんじゃないかな、と思う。
一度きりの人生、なんで自分の作った枠の中できゅうきゅう暮らさなくちゃいけないのか、私にはわからないし、そこを書いていきたいなと思う。
私は自分の作品のテーマが「時間は戻せない、だから今が大切」だと思っていたのだが、そうではなかったみたいだ。もっとつきつめると「枠を壊す過程」というものだったらしい。
兄貴ありがとう。
 
 
 
バリ、ヌガラにて…。
コーちゃん「よしもとさん明日戻りですよね」
私「なに言ってんの、コーちゃん、あさってだって。いやだあ、もうそろそろ私たちの日程も覚えてよう!」
コーちゃん「ごめんなさい…そうでしたね。あまりに人が多くてわかんなくなっちゃって」
私「まあ許してやろう、コーちゃんは忙しいもんね!でも帰りの車の手配は忘れないでよん」
コーちゃん「はい、大丈夫です!」
とかいうやりとりをしながら、コーちゃんをひじでガスガスどついていた私。
しかし、間違っていたのは私たちのほうで、のんびり出かけて、バッソを三杯おかわりして、別荘見学に行って、ごきげんで帰ってきて「プール入って、寝て、晩ご飯食べてから夜中に兄貴の家にいきま〜す」とか言って夜の予定を夢見ながら、ちらっと兄貴の家に寄ったら、ふと兄貴が「この時計、止まってるな。合わせな。今って何日?」と言い、となりの中さんが「二十日です」と言ってもまだ「うっそ〜ん」などと言っていた私たちだが、その時刻は実はもう出なくては飛行機に間に合わないときであった。はっと気づいた私たち。
「兄貴!ごめんなさい、今すぐ帰ります!日にち一日間違えてました!」
と言い、みんなにばたばた挨拶をして、むりやりに空港に飛ばしてもらって、なんとか帰ってきた。
バカですね〜。
兄貴「南国やからね。必ずおるんよ、こういう人。空港のカウンターに行ったら毎日二、三人はおるね!とりあえずカウンターで『よしもとばななです〜、乗せてや〜』って言うてみたら?」
コーちゃん、どついてごめんなさい。
兄貴、偶然日にちを聞いてくれてありがとうアゲイン。いや、ああいうのってきっと偶然じゃないんだな。兄貴はやっぱりすごいな…。
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