人生のこつあれこれ 2012年10月

今月のオレはすごかったな〜!
だから、長いのを覚悟して読みはじめてください。
私自身も「神様、いっぺんすぎるよ!せめて二ヶ月に分散してくれよ…」と思うくらいの濃密な毎日だった。

るなちゃんが死んでしまった。
覚悟はしていたが、急すぎた。
るなちゃんは「Q健康って?」という幻冬舎から出た私の本の中にがんの闘病記を載せてくれた、ものすごい根性のある、人としてほんとうに尊敬できる人だった。
背が高くて、美人で、強く優しくて、あまりにもすばらしい人、いい人すぎた。だから神様は早く呼んじゃったのかな、と思う。
るなちゃんは生前、そこを書いてくれるなとすごく言ったので一度も書かなかったけれど、もう時効だろうと思うから、彼女のためだけに少しだけ書く。
彼女は最愛のお母さんとお兄さんとすごく仲がよかったし、最後まですばらしい家族関係を見せてくれたけれど、子どもの頃お父さんの関係でほんとうにたいへんなことがあった家だった。そしてその過酷なできごとゆえに、彼女には目に見えないものが見えるという才能もあった。
彼女には死んだ人たちや、人のまわりについている人たちが見える時期があったのだった。
でもるなちゃんはいつも優しかったから、交通事故でぐちゃぐちゃになった人が前からやってくると「どうしてそんなになっちゃったの?」と話しかけていたし、私がアル中の人とつきあっていたときは「彼氏はすごくあなたを愛してるけど、なぜか酒の瓶を持ってる」となにも言ってないのにずばり当てたりしていた。
その力は成長と共に消えていったが別の形で彼女に残った。それはあの闘病記を読んでもらえればわかると思う。
医者や病院に関するすばらしい直感力が常に彼女を救ったのだ。
しかし、あまりにも光が強すぎると、さまざまな闇も近づいてくるものだ。
退院して数年はふつうに暮らしていた時期、彼女はやりたい夢が全てつまった公の仕事をしていたのに、あまりにも美人なので警察ざたになるレベルのストーカーがついてしまい、そこを離れざるをえなくなった。ほんとうに悔しい。彼女にストレスを与えたその人の人生にそれはきっと還っていくから恨みはしないが、生き生きと働いていた彼女を思うと、とても悔しい。
そんなたいへんなことがいっぱいあったのに、るなちゃんは常に前向きだった。
私は、たいへんなことが、病気が、彼女の輝かしい人生に追いついてしまったことをとても悲しく思う。
でも病気は彼女のすばらしさを、最後までなにひとつ損なうことができなかったのだ。
がんが脳内や骨に転移して、余命が二週間と言われたときからるなちゃんは何年も生きた。
抗がん剤でげえげえ吐きながらも、ごはんをしっかり食べて生き延びた。
「吐きすぎてまるで水芸みたいです!でも負けません!」とメールをくれたるなちゃん。
「頭に穴をあけて抗がん剤入れてるんですけど、その姿、笑えちゃいます。今日も窓から富士山が見えてすごくきれいですよ。写真送ります!」
と病室から夜明けの富士山の写真を送ってくれたるなちゃん。
そんなるなちゃんは、自分がどんな状態にあっても乳がんの友だちがいたら、必ず自分の胸の術後の写真を送って勇気づけていた。今は個人情報の保護のために、術後にどういう傷になるか写真で見せてもらえず、みな不安になるからだ。
るなちゃんはそんな地獄の治療を超えて、またふつうの生活をするようになった。
元気で歩いているるなちゃんに最後に会ったとき、横浜のホテルでエスカレーターに乗りながら、るなちゃんは言った。
「まほさん(私の本名)、淋しいよ〜!」
とても大きな声で、手をふりながら。
私も淋しかった。
ウィルス感染がいちばん困るからるなちゃんはあまり出歩けない。外から菌を持って行ってはいけないと思い、私もしょっちゅうは会いに行けない。だからほぼ毎日メールをした。
きれいな景色が見たいというので、いろいろな場所で写真を撮って送った。
今も、きれいな夕焼けなど見ると「るなちゃんに送ろう」と思って、写真を撮ってしまうくせが抜けない。
うちの庭に毎夏咲く蓮の写真を送るたびに、
「今年もるなちゃんと蓮を見れて、夢みたいだよ。来年もいっしょに見よう。がんばって育てるから」と私は書き、るなちゃんも「その蓮を見て、すごく元気が出たから」とメールアドレスの一部に蓮という文字を入れていたくらい、お花が好きな人だった。
来年の蓮がでっかく咲いたら、私はきっと泣いてしまうと思う。

とてもとても強い人なので、病状が悪くなっても隠すだろうと私は思っていた。
いつその日が来るか、こわかった。来ないでほしい、奇跡が起こってほしいと願った。逃げ出したくなったことも何回もあった。
でも、私は逃げなかった。
るなちゃんは私が忙しかったり弱ったりしていると、察知して必ず味方だという励ましのメールを送ってくれた。私こそが支えられていたのだと思う。父が亡くなったときも、すぐにメールをくれた。
この夏、血液検査の数値が悪いと聞いたとき、私は何度目かの覚悟をした。
そのあとメールに「輸血」という単語が入っていたとき、私は父が最後のほう輸血をしていたことを思い出した。自分で血を作れない、ああ、これはかなり悪いんだ、でも、もう一度復活してほしいな、と願った。
しばらくして、メールがとぎれるようになった。
るなちゃんの最後のメールはこうだった。
「いつも、優しいお言葉、ほんとうに、ありがとうございます!副作用で、ちょっと、辛いですけど、慣れて来ました。頑張ります!!まほさんも、お体御自愛くださいませ   るな」
ほとんど死にかけてるのにこんないつも通りのメールくれるなんて、バカバカ!
そのメールのあと、一週間メールがとぎれ、私はできればその現実から逃げたかったけれど、ああ、これはもう、そういうことなんだな、と思って、るなちゃんのお母さんに電話をした。
「よしもとさん、るな、もう意識がほとんどないんです。携帯を手に取ることもなくなって…病院に行ったけれどもうできることがないからって緩和ケア病棟に入っていて、もう、退院することはない入院をしてるんです。」
私はおいおい泣いて、
「よくがんばりました。お母さんもよくがんばりました。どんな姿でもいいから会いに行かせてください。」
と言って、病院に飛んでいった。

病院は懐かしい伊豆にあった。
毎夏両親と過ごすために通った、沼津グルメロードを通った。
あの頃は、どんなに幸せか知らなかった。夏やすみ、家族と合流するために車に乗って、この道あたりでちょっとお昼ご飯を食べることがどんなにどんなになにものにもかえがたいものか。
ほんとうに時よ戻れ、時よ止まれ、そして全部うそだと言ってくれ、と七尾旅人のように思った(笑)。
これから修善寺を越えて、山をひとつ越えて、土肥に行ったら、あの旅館で家族が待っていたらいいのに。いやな夢だったなあ、よかった、夢で!ってお父さんとお母さんとお姉さんとごはんを食べて、山と海を見ながら散歩して、ビール飲みに行けたらいいのに。私がもう四十八で責任ある大人でなければいいのに。こんな怖いこと受け止められないって逃げられる子どもだったらよかったのに。
そんな悲しい気持ちであの道を通ることがあるなんて、思わなかった。
でも、車の中には、日帰りで沼津まで行くことを全くいとわない優秀すぎるバイトのはっちゃんがいてくれる、今は今なんだ、今のすばらしさがある。私は逃げない、そう思った。
病室に入ったら、るなちゃんは寝ていた。やせ細っていたけれどやっぱり美人だった。
起こさないようにしようと思ったけれど、るなちゃんは起きて私をぼんやり見ていた。
「まほこです、るなちゃん、メールありがとう」
私は言った。
「うそ、まほさん、ほんとうに?夢みたい」
るなちゃんはしっかりした声で言った。
「寝てていいよ。るなちゃん、ほんとうにずっとありがとうね。」
私はるなちゃんの手を握ったり、足をさすったりした。
弱っているるなちゃんはまるでついに大木が倒れたようで、胸がはりさけそうだった。
足はむくんでいるけれど、すっとして色もとてもよくて、とても信じられなかった。こんなきれいな足がもうすぐ死ぬ人の足だなんて。
「寝たらもったいない、まほさんが来てくれてるのに、もったいない。」
しきりにそう言っていた。
「るなちゃんは寝込んでいても美人だね」
と言ったら笑ってくれたけれど、
「いっしょに温泉行こうって言ったじゃない、また退院しよう。」
には答えてくれなかった。
「寝たらまほさんが帰っちゃう、帰っちゃう」
そう言って、彼女はナースコールをして、車いすに起き上がると言った。
「いいよ、寝ててよ。また来るから。」
私は言った。
「まほさん、仕事あるのにこんな遠くまで来て…わかった、喉が渇きました、だから起きます。ポカリ飲みたい。」
そういい張るので、販売機に走って買いに行った。
その間に、看護師さんたちがるなちゃんを起こして、車いすに座らせていた。
「寝てたら体が弱くなっちゃうから。」
るなちゃんは言った。
もういいんだ、もうがんばらなくて、そう言いたかったけれど、やっぱり言えなかった。
必死で体を起こしている彼女はよれよれでもまるでエジプトの王族の像みたいに、気高くて美しかった。ポカリを飲んでゲップが出たら、
「空気もいっしょに飲んじゃうんですよね。」
と言ったので、
「こんなときまで気を使って!」
と言って私はるなちゃんのももに頭を当ててちょっと泣いた。ももは温かく力強いのに、なんで、もうすぐ死んじゃうんだろう。
「あんまりにも具合が悪かったんで、電話したら即入院になっちゃって。」
るなちゃんは、また退院できる人みたいにそう言った。
いっしょに並んで薄い色の青空と伊豆の山を眺めたことを忘れない。
「まほさんって、アッコちゃんみたい。」
るなちゃんははっきりと言った。
「どのアッコちゃん?」
私は言った。
「♩アッコちゃん、アッコちゃん、スキスキ♩のアッコちゃん。校長先生が出てくる歌の。」
るなちゃんは言った。
そしてふたりはふたりだけで並んで、空を見ていた。しばらくしたらるなちゃんは、
「寝るが〜!」と勢いよく言った。そして、
「秋田弁出ちゃった!」
と笑った。
それが彼女がなにかを決心した瞬間だった。多分私を帰してくれるために、私と別れる瞬間を受け入れるために。
骨にいっぱいがんがあったので、あちこちがとんでもなく痛かったのだと思う。寝かせるときも、首が痛い、もう限界、と言っていた。
「お薬増やしますね。」
看護師さんがモルヒネの量を増やす点滴の装置のダイヤルを回そうとしたら、るなちゃんは「ちょっと待って!」と言った。
「薬は、なるべく増やしたくない。」
「じゃあ、あとにしますか?」
看護師さんが言うと、るなちゃんはじっと考えて、
「やっぱりお願いします。」
と言った。
私はるなちゃんの手を握り、るなちゃんはぎゅっと握り返した。
私はもう一回来ることを誓って、るなちゃんのおでこにおでこをくっつけて、そっと病室を出た。
その三日後に、るなちゃんは去った。


もっとびっくりしたのは、母がいきなり亡くなったことだ。
死の発表を見たるなちゃんのお母さんから電話があり、びっくりした!とおっしゃっていた。あまりにびっくりし合っていたので、ふたりとも思わず笑いあってしまった。
「きっと今頃、ふたりで笑ってますよ。なに笑ってんだって。」
「そうですね、きっとそうです。」
るなちゃんのお母さんと私は言い合った。
あと十年生かしたい、そのための医療費や介護費ならなにがなんでも稼いだる、と思って仕事にエンジンをかけていた。
それでも母がもうあまり長い間この世にいないだろうな、ということはなんとなくわかっていた。認めたくなくて、がむしゃらに働いていたのかもしれない。
夏に姉が留守のとき会いに行ったら、母はすごい汗をかいて脱水症状を起こしていた。水を飲ませて、冷房の温度もあげて、汗を拭いて、足を拭いて、体をマッサージした。
「痛い、なんとかして。」
母は言った。
母はいつも欲しがる人だった。素直になんでも欲しがる人。決して与えない人。自分の美学だけをしっかりと保ち、なににもゆるがない人。
でもとても素直な人だったから大好きだった。
こんなときに出る言葉も「なんとかして」なんだね、と私は少し哀しく思った。
何万回もあきらめてきたことだった。ふつうの母親らしい、世話してくれる母の態度というものを。
それでも母と私は嫌い合っていなかったと思う。
だから心をこめて体をさすった。少しでも痛みがなくなるようにと願った。そして感謝の気持ちを伝えた。体が弱いのに産んでくれて、きつい人生なのに明るくいてくれて、ありがたかった、と心の中で思った。
母の体から命の最後の光が出ていこうとしているのが、必死でさすっていたらわかる気がしたのだ。どうしてもそれは止められなかった。
父のときはそうではなかった。父は決して諦めなかった。私の力を全部受けとって、一日を生きる力に換えていた。しかし母はもう諦めていたと思うし、納得していたと思う。
翌日から母はしばらく何回も吐いて、入院、点滴をして、家に戻ってきた。
そして一段階活気がなくなり、毎日かけていた私とチビからの電話を取らなくなった。
姉が「なんだか朝見に行ったら死んでいそうなくらい、活気がないんだよね」と言っていたその次の日、母は眠るように亡くなった。
自宅で、ちゃんと前の日に晩ご飯を食べて、お酒も飲んで、朝起きて最愛の姉と会話して、眠ったままで。
もちろんびっくりした。まだびっくりしていて、実感がないくらいだ。
去年の今頃、私は四人家族で座って会話しながらごはんを食べていたのだから。
私と姉のいちばんつらいことは、今度母になにか症状が出たり転んだりしたら、多分救急車で病院に運ばれ、即刻管でいっぱいになり、亡くなるのを待つあのつらく痛い入院期間に入るだろうということだった。
でも、それはもう、ないんだ…。
そう思ったときの、気持ちの軽さ、安らかさ、明るさにびっくりした。
素直すぎていろいろ問題のある人だった。でも、帳尻を合わせ、美学を貫き、入院したくないという意志を全うした。そう、母は本来そういう人だった。体の弱さが母からいろんなものを奪ったのだ。
お葬式もとても軽くてさわやかだった。
母の遺影はビールを持ってピースサインをしているものだった。みんな微笑んでくれた。気管切開の傷もなく点滴の青あざもない遺体は今にも起き上がってきそうだった。
私にそしてまわりにとっても偉大だったと呼んでいいと思う、必死に時代を生きた一組の夫婦が去り、ひとつの時代が終わった。
残された私は、自分の人生に戻っていこう。
私本来のしたかったことを少しずつ取り戻ししながら、姉とも仲良くありたい。
そしてほんの少しの間しかいっしょにいられない私の夫と子どもをいっそう大切な人生の軸にして、世の中にないようなへんてこな独自の生き方を静かにしていこうと思う。そして独自の生き方をしている他の人に、これまた静かな勇気を与えよう。
健康でいたい。できれば不健康をはねかえしたい。今の私は一年前の私より数段階パワーアップしている。十年は老けたが、十年分の気づきを得た。
どんなものが書けるか、なにができるか、自分でも楽しみにしている。


父が亡くなった時期も、そして母がいなくなった時期も、たまたまめったに日本にいない小沢健二くんが東京にいた。
しかも母が亡くなった次の日、他のみんなを交えて飲みに行こうという約束をキャンセルさせてもらった私の家に、小沢くんはかけつけてくれたのだった。うちの子どもの手品を見たり、お茶を飲んだり、たわいない時間だったけれど、みんな気持ちが明るくなった。
少し前に岡崎京子さんのおうちにも行って、いろんな懐かしい話をして岡崎さんをにこにこさせていた。岡崎さんとしゃべる小沢くんはちっとも構えてないし逃げてもいなかった。
彼の歌っている美しいことにはひとつも嘘はないんだな、と改めて思った。
口だけじゃない、彼は天使なんだ。
いるべきときに、勇気を持って、いるべき場所にいる人だ。
私も愛する人にとって、いつでもそうありたい。

そんなときにフラの発表会があって、私は何日も眠れなかったり食べられなかったりしたのでよれよれで出かけていったけれど、みんなの笑顔を見たらほんとうに癒されてちょっと涙が出てしまった。
毎週いっしょに踊った人たちの笑顔は最高に美しくて、踊りは柔らかく優しくて、信じられないくらい調和していた。
誇らしくてしかたなかった。みんな女神みたいだった。
フラがなかったら決して知り合うことのなかった自慢の友人たち。
寝不足でもう帰らなくちゃと思っていたのに、踊りを見たら元気がわいてきて、数人の仲間を待ってごはんを食べた。少しも疲れなかった。みんなの顔が見たかった。なんてきれいな人たちだろう、と思った。
踊りや歌を人に見せるということは、きつく地味な練習の時間をのりこえて得たものや自信を凝縮した瞬間の奇跡を見せて、人に力をあげることなんだ。
小説を書くことと全然変わらない。
私は言葉を武器に、彼女たちは踊りを武器に、世界を平和に変えていく。そう思った。
あ、私も一応は踊るんですけどね…!レベルがね!低いながらも、踊りもがんばります。


一ヶ月の間に大事な人がふたり亡くなるなんて、やっぱりまだびっくりしていて、とても頭の整理はできない。三月に亡くなった父に関してだって悲しみは生々しいのに。
母もまだまだがんばってほしかったし、るなちゃんは若かったからどうしても悔しく思ってしまう。みんな体がきつくてあんなにがんばったのがやっと楽になったんだから、もう少ししたら「よかったね、みんないい場所にいったね」と思えるようになりそうだ。
仕事も普通にバリバリして、子どもを起こして、お弁当を作って、忙しく毎日は過ぎていく。
朝起きると毎日思う。
「あ、お母さんいないんだ、るなちゃんもいないんだ。そういえばお父さんもいないんだった!びっくりする〜!」
だから心の整理をしないままでいようと思う。しない権利があるように思う。しないままで、このびっくりが体と心にちゃんとしみてきて、私の力になる日を待とう。
こんなとき必ず来るはずのるなちゃんからのメールが来ない。
「まほさん、お母さまが亡くなるなんて、どんなにつらいことでしょう。私がついてますからね!がんばれ!」
絶対そう書いてあるはず。
何回携帯を見ても来るはずのメールが来ないのは、不思議だ。
でも心の中にメールは届いている。私もいつも書いている。いつも通り、きれいな景色や花を見るたびに。
鏡を見ると、私の中にるなちゃんがいる。両親もこの血の中にいる。私はみんなの力をもらって生き延びている。

心が 愛を 追うのだから
私に 何が 出来るでしょう?
叶う事も ない この 愛に
私の 心は とても 痛いのです

1日が 過ぎ 夜が 来れば
私は ひたすら あなたを 想うばかりで
情けなくて バカみたいな 私を
どう すれば いいのでしょう?

私の 痛みが 鈍ってしまう 日が
いつか 私に 来る事は あるのでしょうか?
情けなくて バカみたいな 私を
どう しろと 言うのでしょう?

月の光が とても キレイだから
このまま 行く事が 出来ません
あなたの そばで 少し 横になって います
少しだけ ほんの 少しだけ

(イ・ソニ 『ヨウビ』 より 和訳はまやちゃんのを借りました)


もう半端なことはできないな、そう思う。
毎日が決断と冒険、試されている日々だ。たとえ弱っていても日々の旅は続く。だから弱っていられない。実際、弱っていない。
母が亡くなる前に、母を幸せな状態で寝かせてなるべく入院させないで見送るためにどんだけお金がいるんだろう?とお金にうとい私は怖くなって、丸尾孝俊さんのメルマガの兄バイス(アニキのアドバイス 笑)コーナーに投稿したら、なんと採用されてしまった!
動画の中のアニキが言った。
「この人は、十二分に稼げる人やな。」
その言葉が胸にどしんと入って、私は突然大丈夫になった。
ウィリアムもそうだし、桜井会長もそうだし、ゲッツ板谷さんもそうだ。
体をはって現世を生きてきた人は、いつだって強くて優しくて勘が冴えている。
その言葉にうそはない。そういう人たちが好きだ。簡単に分類するとやっぱやくざかサイキックなんだけど…!
このあいだ会長とごはんを食べてて、どうしても私がごちそうしたかったのでさらっとさいふをレジに出したんだけれど、魔法のように会長に負けてしまった。なんの力も加えられていないのに、いつのまにか私はさいふをかばんに入れられていて、会長がお金を払っているのである。…これは…さすが雀鬼だ!
あんなかっこいい、どこにも力が入ってないのにものすごいおじいちゃんみたいな、おばあちゃんにいつかなれるかな。
アニキみたいに楽しいことをとことんやれるだろうか。
ゲッツさんみたいに命をかけて飛んで来てくれる友だちが増えるかな。
ウィリアムみたいに体が不自由になっても、人に甘えないで真実を告げられる人になれるだろうか。
そんなことを夢見ながら、ああだこうだ言ってないで、生きてるかぎり行動して、すっごく楽しんで、まっすぐに天国に行ける生き方をしよう。
るなちゃんは、いつだってとてもむりをする人だった。
あまりにも優しくて、正義感が強くて、お人好しで、人のことばっかり考えて、自分を後回しにして。
でも、私は「そんなふうだから、病気になっちゃうんだよ。もっと自分本位に生きて、人のことは見て見ぬふりをして、ムダなエネルギーを使わないで、健康で長生きしたほうが周りの愛する人のためだよ」
なんて絶対言わない。
昔の私だったら、そう言ったかもしれない。
でももう、口が裂けても言わない。もっと思い切り楽しんで!楽しいこともっとして!くらいは言うかもしれないが。
私が見ていた期間、るなちゃんの前を通っていった、そういうことばっかり言ってる実に中途半端な今ももちろん生きてるずる賢い人物たちよりも、るなちゃんのお母さんやるなちゃんのハンパない損でムダな生き方のほうがずっと好きだ。
「もしもそんな生き方しなくちゃいけないなら、早く死んでもいい。そんなにしてまで生きていたい卑しさよりも、燃えて生きて丸損なほうがいい。だからもっと楽しんでいこう。そのほうが天国でうまい酒飲めるだろう。」
るなちゃんの生き方と死に方を見ていたら、心からそう言えるように私は変わった。
るなちゃん、ありがとう。
お母さん、産んでくれてありがとう。
愛してます。いったん、さようなら。
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