人生のこつあれこれ 2012年8月

こんなときになんでまた、というタイミングで韓国へ行った。
ええと、ちょうど大統領が島に上陸した次の日くらい…(笑)。
なぜって、それはもちろん仕事があったからだ。仕事がなくっても多分ものしずかに行ったと思うんだけれど、食いしん坊だから、カンジャンケジャンが食べたくて。
今アジアでいちばんビジネス的に注目されているのは韓国だと思うけれど、それはよくわかる。根性が違うもの。少し大阪の人たちに方法論が似ているけれど、なんていうか、もっともっとラテンな感じなのだ。
韓国の人たちの仕事にかける雰囲気を見ているといつも圧倒される。ホテルのアンケートで「こういうところがこうだった」(ex. もし席が予約できないなら、できれば朝食時に、空調の真ん前はいやだとかある程度レストランの席を選ばせてほしい)と書くと、よほど理不尽なことでないかぎりは改善されているのでびっくりする。
あの勢いというか、忙しいけど楽しい、だってお金が入ってくるもん!みんなでがんばれば楽しいし!みたいな、まだのびる余地がある明るい感じはすごい。
それから、編集の人を「ついでに会社の近くまで送っていきましょう」なんてタクシーに乗せようとしても、死んでも乗らない。乗ったら必ず著者を先に降ろす。どんなにどしゃぶりでも寒くても暑くても。そのプロ根性を見るとほれぼれする。
台湾は一部をのぞき、もう少し日本に似ていてのんびりしている。
中国は行ったことないから知らない…、けど香港はもう飽和状態で、金融に特化して生き延びてる感じかなあ。
韓国でイベントをするのは数回目だけれど、いつもと変わらないあたたかい読者たちがそこにいてほっとした。日本でもそういう人たちがいるから嬉しいけれど、カップルでやってきて「あなたの本を貸し借りしてつきあいはじめました」という人たちもたくさんいた。その人たちが手をつないで帰っていく様子を見ていたら、私も幸せな気持ちになった。
本は夢と同じでひとりでしか基本的には読めない。
同じ本をとなりの人といっしょに読んでいても、頭の中に描く絵は違う。
だから、どの国の人でも、その国と日本がどんな関係になっていても、その人が私の本と一対一で向き合った時間は消えない。
それを目で確認するのと、頭の中で「こうだよな」と理屈で思うのとは全く違う。目で確認できてよかったと思う。
こんなようすの人たちの毎日の暮らしに私の本があるんだ、とわかるのはなによりも嬉しい。
そんなときにいつも思い出すのは、亡くなったイタリアの映画監督ルチアーノ・エンメルさんのことだ。
出会ったときに八十歳くらいだったけれど、私のイベントにいらして猛烈に迫ってきた。ずっと手を握ってくどきやめず、夫も笑っちゃうくらいの勢いだった。
でも単なるエロじじいじゃなかった。八十八歳くらいのときに、ものすごく奥深く面白いスクリプトを送りつけてきて、日本で映画が撮りたいからなんとかしてと言われた。私は監督じゃないからと感想だけ送ったけれど、彼の作品特有の透明な美しい映像がスクリプトからすでに立ち上ってきたので感動した。
彼のとなりで彼の公式最後の作品「水…火」という魔女を扱った美しい短編作品を見たことを一生忘れないと思う。
そのイベントの仕切りは最悪で私もスタッフもぶうぶう文句を言ったけれど、いやなことの後ろには必ず宝が隠れている。あまりにもすばらしいその映像に私はいやなことを全て忘れた。
最後に会ったとき「娘に障害があるから、私も妻も絶対に死ねない」と彼ははじめて家族の話をした。それまで「妻なんか関係ない、つきあおう」とか言っていたのに、だんだん私の色気のなさにびっくりして友だちになってきてそう言ってくれたことが嬉しかったと同時に、その「絶対に死ねない」には「人間、そんなことありえないでしょう、無茶をしないでくださいよ」とは決して言えない気迫があった。
イタリアに行ってなかったら、彼の生と死を見ることはできなかったんだなと思う。
人生は短いし、私は文章を書いていたい。だから足を運ぶことに中毒していてはだめだ。それでもできるかぎり、この目で見ることを大事にしたい。この目で見ないと思い出が作れない。
 
 
「人間仮免中」というマンガを読んだ。
それで、ものすごく感動した。
この人のことは、前に家が超近所な頃に、殺人したいという妄想を持ちながら近所のスーパーを歩いていると書いてあったのですごくいやだなあと思ったから、よく覚えている。
前のご主人が飛び降り自殺をはかって植物人間になってしまい、作者も精神を病んでたいへんだったというところまでは知っていた。そのあとますますたいへんなことになっているなんて知らなかった。
もちろんマンガだからものすごく美化というか単純化されているし、卯月さんの怒りを発散させたり経済を支えるためにもかなり正直に卯月さんの側から書かれているから、「おお、これが真実なのか」という読み方はできない。障害を持ちながら描かれているから絵もぐちゃぐちゃで、読んでいるだけで充分具合が悪くなった。それでも、この本を扱うことはそれだけでとにかく危険だというくらいの迫力のあるものを読んだのは久しぶりで、大きく心が動いた。このような状態になっても、マンガ家は描くんだ。このような状態でも、人は幸せに向かって生きるんだ。たとえそれがむちゃくちゃであてずっぽうであっても。
私が昔バイトしていた地域、飲んでいた店、つきあっていた人たち…みんなこうだった。こうだったからお金も入ってこないし、病気になるし、損するし、早死にするし、そんなふうだった。常にお酒が入っているしその場の正義で動くし一貫性がないから、なにも続かない。
作家になってお金が入ってきたらそこにいづらくなって私はそこを去った。みな生きているのだろうか?と思う。多分半分くらいしか生きていないのではないだろうか。
でも、あの人たちはみんなとにかく体をはって生きていた。
美化するつもりはない。でも、とにかく生きていた。卯月さんもこんなになっても生きている。時折のぞく鷹揚な言葉は泣かせるくらいおおらかだ。
こんなことを作品にした人はこれまでにいるのだろうか、顔面が破壊されて目が見えなくなって絵が描けなくなっても、なにがなんでもした人は。
今月は感動した根性の話が多いが、まさにこの作品に関してもそうだ。
「むりしないほうがいい、自分をいたわって」という話が多すぎる昨今、へそまがりな私はやはりこう思う。
「もちろん楽しいのは大前提だし、自分をいたわるのも大前提、でもだからこそそんなもの全部とっぱらって、バカでもまとまりがなくてもなんでもがむしゃらに行くときも人にはある」
誤解を恐れずに言うと、あまりにも自然や社会の動きに対して自分が無力な気がしてしまうと、人はどうしてもコントロールできるもので気を紛らわせようとする。
食べるもの(どこどこ産のものしか食べない、放射能を測定したものしか買わない)だとか、着るもの(冷えないとか、このブランドしか着ない)だとか、毎日〜をどうしてもやる、だとかそういうことにこだわりはじめる。
でもそれは一見よいことに見えるし、私もかなり実践しているけれど、気晴らしという点や、人によって健康を害することもあるという点では喫煙とほとんど変わらないと思う。
取りにいくタイプの人(うまいもの食うぞ!とか絶対冷やさないぞ!とかこのブランドが好きだから他のもの着る気がしないぞ!とかもう空気のいいところに引っ越しちゃうぞ!みたいな人)はそのタイプが見た目に地味であろうと派手であろうといつでもある意味健康なので、どんな時代でも変わらない。問題なのは、したくないけれどよさそうだからしようかな、みたいな場合だ。
コントロールできるものに囲まれていると安全な感じはするけれど、人生はどんどんタイトになっていき、呼吸ができなくなるイメージがある。枠が小さくなっていく。そうするといざというときに体が力を出してくれなくなる。体が勢いに飢えていて「楽しいことがないなら、もういいですよ」といじけた状態になってしまっていることが多い。
たとえば、戦争中に食べるものがない。体は全力で食物を欲している。そんなときにひとつのカップヌードルがあったら、人は全身で喜び、その中にあるわずかな栄養素さえ心身の栄養にするだろう。
もちろん水は常温で飲んだほうが体にはいいと思う。足首も肩も冷やさないほうがいい。びっくりしたり急な動きだってよくないだろう。しかし、寒風吹きすさぶ駅のホームのはじっこに愛する人が立っているのを偶然見つけて、待合室から上着を忘れて袖なしで飛び出して走っていくとき、その人は冷えないと思う。
つまり「心身の一致」「潜在意識と現実の一致」がだいじなのだと思う。
ある健康法にだれかがひきつけられる。そのときにだいじなのは、それがどこからやってきたかだ。尊敬する先輩がそれを実践した、行きつけの鍼灸院ですすめられた、あるとき電撃的に書店でその健康法の本に出会った…なんでもいい。その人の深いところのなにかとその健康法が一致すれば、なんでも有効になる。
でももし、そうでないのなら、どんなに体にいいことをしても健康にならない。
どんなに肉を食べていても、もしかしたらどこかにシリコンなどが入っていたとしても、たいへんなお仕事を持ちながらも気高く、したいことをなるべくして笑顔でいる叶姉妹は多分健康だし、なにも殺生しないで冷やさないで空気のよい自然の中で暮らしていても、周囲に愛を持てない生活をして心が暗く荒れていたら多分不健康になってしまう。
私は、なによりもそのすんごいバリエーションに耐えうる「人間というものの力」がいちばんすごいと思うのだ。
呼吸法ひとつとっても、鼻から吐け、いや、口からだ、いやロングブレスだ、いやいや吸う息と吐く息は同じ長さだ、背骨で呼吸しろ、いや、丹田だ、いや違うのだ、大地から吸い上げろ、などなどすごいバリエーションだが、いちばんすごいのは、心から信じて行えばそれぞれが先生になれるくらい健康になってるっていうことだ。
心から信じていることをすれば、なんとかなっちゃうという、その人間の力がいちばんすごい。
そして今日本の人々がいちばん信じてないのは、その人間の力…そんな気がする。
 
 
じゃあ、お金の力を信じている人は全員最低なのだろうか?
と思っていろいろ考えていて、バリ在住の実業家丸尾孝俊さんの本を見つけた。
フォーマットが西成のかっこええ漢!なので、やんちゃ&タバコな感じは桜井会長を思わせ、おっしゃっていることもなんとなく近い。
人間力重視の感覚を世の中に体をはって残そうとしている感じも近い。
ある程度お仕事が落ち着かれたから、後続の若い人たちに教えようというオープンな感じもどことなく近い。
あまりにもタイプが違うからわかりにくいけれど、森博嗣さんだって同じだ。お金を稼いでいるし、後続に知恵や知識を惜しみなくさずけている。
こういうスケールがでかい、やんちゃな子どもみたいなおっさんたちが町に昔は普通にいたんだよなあ…。
あのおやじんとこ行けば、とりあえず解決する、みたいな。
今は町のおやじんとこ行くと、おやじはめんどうがって目をふせて逃げていく時代だからなあ!
だから頼もしくて読んでいて心明るくなった。昭和な私…。
彼の言っていることを丸々信じて、バリでいきなり事業を始めるすなお〜な人がいっぱいいそうで私だったら発言自体を心配しちゃうんだけれど、失敗してもとにかくやれ!いつでも相談に来い!というおおらかな態度に救われる人は多そうだ。
普通こういう人は「なんだ、会いに来いったって、結局金払ってツアーで行くしかないわけで、ツアーでちらっといっしょにごはん食べて終わりでしょ、商売じゃん」と思わさせられるんだけれど、この人には「必ずやるな、行って泣き言を相談したら、目一杯知恵を使って本気で答えてくれるだろう」という輝きがある。
大きな不動産を扱っている人の周囲を見る細心の注意を払った態度はほとんどサイキックみたいにすごいし、ほんの一瞬の読み違えでいろんなものがパーになるので慎重&大胆だし、だからこそ身内(血族ではない、志の身内)を大事にするし、あの一瞬の判断とそれを現実にしてしまう力は経験値としか言いようがないから、すぐには身につかないんだよなあ…と思いながらも、無茶して失敗して裸一貫になってどんどん学んでっていう男たちが増えると、それはそれできっと動きがあっていいような気がした。
自殺する人も多そうだけれど、生き残る人も多そうだから。
漫然と三万人が自殺するこの閉塞感あふれる雰囲気よりはいいのかもしれない。
根性というのは「〜しなくてはならない」からは決してわいてこないものだ。「〜したくてたまらない、しかたない、行くか!」と飛び込んでいくものだと思う。そこには必ず友だちや仲間がいる。人生捨てたものではないと思う。
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