人生のこつあれこれ 2012年5月

まだまだ弱っているが、父の死にまつわる何かを少しだけ超えた気がする。
最近ちょっと体も軽いし、泣きながら起きることも減り、元気がどうにも出ないこともなくなってきた。勝手に立ち直る体はなんとも残酷なものだが、頭だけだったらきっと永遠に立ち直れないから、すばらしい仕組みだと思う。
病院の玄関に立つとき、父が死んだ五階のフロアを見るときだけ目の前が真っ暗になって吐き気がしてくる。そんな自分はへなちょこだがよくがんばったと思う。
どれだけの死を見てきても、親の死は違う。親が何歳で死のうと、自分が何歳のときであろうと格別にショックなものだから、だれにとってもきっとそうなのだろうと思う。
ひとりの人が生きて死ぬと、当然その人の人生で未解決だったことがたくさんある。そういうのが比較的少ない父でさえも、やはりそれは残っていた。それをただどうしようもなく見つめる、そんな感じの毎日だった。
愛人も隠し子もなく、身の丈分だけの暮らしをして、お金なんか少しも遺さなかった父なのに、それでもこの期間いろいろな意味での地獄を見た。
お金を遺したら、もっともっとたいへんなことになるのだろう。
なにも遺さずに去ろう、としみじみ思う。それが子どものためかもしれないとさえ。
私の姉は、ほんものの変わり者で、内気だがパンチがあり、ものすごく頭がよいがむちゃくちゃ偏っていて、とてもたいへんな人なのだが、この一連のおそろしいできごとを経て、子どもの頃にはあったけれど失われていたきらめきのようなものが、姉の中から不死鳥のように立ち上がってきたのを見た。
それはそれはすばらしいものだった。
まあ姉のキャラのあまりの濃さに、殺し合いかというくらいのけんかもいつもするんですけれどね…!そしていつも姉に「ぶりっ子!八方ブス!」と言われる私…!
姉はほんとうに父によく似ているなあと思う(内気なのに異様なパンチがあり、ときどきありえないくらい頭が冴えているところ)ので、そこにも日々しみじみするのだった。
そして最終的に悟ったことは、ものごとは深く考えてもしかたない、よく感じてみて、体が向かないことは向くまでしない、できないけどしなくちゃいけないことはさくさくやってその場の楽しさを見つけてなるべく早くずらかる、深く考えすぎてこりかたまったものは、もし時間がたってゆるんできたらさっさと手放して今をエンジョイする、などなどのしょうもないことばかりだった。
それから姉の変貌を見て、人間は時間ができるとやはり顔つきから元に戻ってくるのだ、ということがわかった。
ここ十年くらい、姉は介護以外のことをほとんどできなかったので、そのきらめきは抑えられ、炸裂しにくかったのだろう。しかし最近の姉は昔の顔をしている。
やはり人は、自分の時間を確保するためには、なじられてもなんでも逃げたほうがいい。
姉が介護をいやがっていたというのではない。でも、姉の自由時間がいつのまにかなさすぎたと思う。姉は頼られるとがんばってしまうタイプなので、周りがなにを言おうと、人に頼まなかったのだ。そして大きく支払って大きく取り戻している今の様子を見ると、なにごともダイナミックな姉のあり方に沿っているなあと思うのだ。
せこい私は「赤ん坊が小さいときにはみっちりいて、大きくなったらばーんと逃げる」みたいなことができず、いつもせこせことちょっとお茶をしにいったり、数時間飲みに行ったりして散らしていたが、これもまたせこい私にはよいサイズの方法なのだろう。
一般的に、やはり好きなことをしてバランスのいい状態にあると、ものごとは通じやすいし、あきらめや疲れは伝染しやすい。
それに、本人が本人でない冴えない状態にあるときに、あれこれ伝えてもしかたない。冴えている状態とはハイな状態とかなんでも来いという状態ではなくって、その人が本来の姿をしているときのことだ。
もう逃げることがないくらいいやなことばっかりだったら、いやじゃないことを増やそうとしたほうがいい。
自由とか幸せとかよく言われるあらゆることに関して、私はそう確信した。
もしもその人がその人を十全に発揮していて、それがある程度許される環境にあれば、ほんとうにむちゃくちゃな人は意外にもあんまりいないと思う。
よく「会社に行かなくていいなら、自分に戻れる」とか「あと三時間多く寝られたら」「義理の母さえいなくなれば」とかいうのを聞くけど、やっちゃう人は、どんな環境でもその人をやっちゃうものだ。あくまでバランスを取りながらだけれど、どんな環境にもやっちゃってる勇者はたくさんいる。
つまり「自分にとってよいことをやる」と決める勇気や優先順位の問題だと思う。
やっちゃえるかどうかで職を決めたり、住むところを決めたりすることだって珍しくはない。それは決して不可能なことではない。
 
 
いろんな追悼特集が出て、父の若いときの写真をよく見る。
私が肩車してもらったりいっしょに公園に行ったりした頃の父だから、もっともっと切なく思ってもいいはず。
それからいちばん頭が冴えていていろんな人の相談に乗っていた頃の父、私の小説にありえないくらいすばらしい批評をしてくれた父だって、すごく好きだったはず。
しかし、なぜだろう、今思いだして会いたいと思うのは、最後のほうの父ばかりなのだ。
そうとうボケていたし、服を着るのが面倒くさいからたいていシミっぽいさるまた姿で、歩けないから床を這っていて、しまいには「オウム真理教ってなんだったっけ?」とか言っていたのだから、情けないと思ってもいいはず。
なのに、今いちばん愛おしく会いたいのは、その衰えた父なのだ。
病院で管だらけになっても、手を握るとすごい力でぎゅっと手を握ってくれた父、なにをするにもいちいち抵抗して看護師さんを困らせていたムダにパワフルな父。
最後に家で会ったとき、ずっとずっとむかごの話をしていた父。
今年もむかごの葉っぱが出てきたのにもう父はいない。今年は葉っぱを持っていって見せてあげようと思っていたのに。
でも、もしかしてこれって人として最高に幸せなことなのかもしれない。
最後の最後の姿をいちばん恋しく思ってもらえるなんて、最もいいことなのかも。
私もそうあれたらいいなと思う。
身内をほめてばかりいてみっともないが、しかたない。私と父はほんとうに相性がよく、お互いのいやなところがあまり見えなかったので、最後の最後までほんとうにラブラブだったのだから。こんなことってあるんだなあと思う。
最後のあたりで、泣きながらでも「私はお父さんの娘でいて、いやなことが一個も、ほんとうに一個もなかった。それはほんとうに幸せなことだったと思います」と本人に告げることができたのも、よかった。
オレって…もしかしたら単におめでたい奴なのかも…。
 
 
人は人と関わりたいし、そうしないと生きていけない生き物だ。
だからその関わりがなるべくふんわりとした余地があったほうがいいのだろう。
若いころは小説を通してもっと大きなことを望んでいたかもしれない。遊びたかったし、いろんなものを見たかったし、お金もほしかったし、もっとこうなりたい、が強くて人のことまで考える余裕がなかった。おそろしい出来事もいっぱいあり疑心暗鬼の中にいたので、周りの人に対して支配的になっていたとも思う。
しかし今はもっと、素直に、まわりはみんなのびのびしていてほしいし、なによりもただ人のために書きたい。
小説を書いて、それを読んで人がちょっとだけ楽になって、ありがとうと思ってくれたらいいと思う。じゃあなんで無料にしないんだ?と聞かれたら、今お金が微妙にいやかなり不足しているし(笑)、家賃も払わなくてはいけないし、体と心をキープするためによい栄養も必要だし、目にもいいものを見せなくてはいけないから、お金は必要だと言う。
松浦弥太郎さんが「新しいお金術」の本に書いていらしたけれど、お金を愛していれば、お金にも愛されるものだ。
では愛されるというのはどういうことかというと、余分すぎるほど来ることもなく、足りなくもならないということ。
そしてなによりも、もし無料にしたら、読んだほうに対して目に見えないたいへんなものを背負わせてしまうことになる。
だからちょうどいい値段で、私の本が、必要としている人に届くといいなと思う。いいあんばいで。
若い頃は、まだ読んでいない人に読んでほしかった。いろいろなもので感受性を鈍らせてバランスを崩し病気になってしまう人の心に積極的に問いかけたかった。あなたはもっと感じているはず、もっとこうしたいはず、しっかり感じてくださいって。
でも、今はそうでもない。
必要としている人がおりにふれ何回も読んでくれたり、あのような書物があったというだけで心が潤う、そう思ってくれればいいなと思う。
必要としている人には、時間をかければ必ず届く。
たとえ書店に置いてなかろうが、Amazonで品切れだろうが、いつかなぜか届くのだ。
その人が電車に乗っていたら棚から落ちてきたり、友達の遺品だったり、旅していたら宿に置いてあったり、そんなふうにしてでも本はたどり着く。そういうふうに書いているんだから、当然だ。それがむりなときは、もうほんとうに引退していいのだし、そうやって届くべきところに届いたものは、さらに必要としている人を呼ぶ。
それを本気で信じられれば、しゃかりきなプロモーションをしてよけいなカルマを作ることもなくなる。
よけいなカルマを作らないとどんなことが起きるのか?いろんなものがもっとよく見えてくるようになり、さらにシェアできることが増えるのである。
 
 
韓国語を勉強しているわけでもないし、習得したいとも思っていない。
でも、毎日これだけ長い時間聞いていると、微妙にニュアンスがわかってくる。
この現象はイタリアにしょっちゅう行っていた頃にもあった。
それで心から悟ったことは「残念ながら、自分は英語に全く縁がなかった」という衝撃的な事実だ。
韓国語やイタリア語に触れるほどには、自然に英語に触れる機会はなかった。ドラマを英語で見たり、意図的に勉強しようとしていたし、今も英会話には通い続けている(先生がすてきだし最低限は必要だから)。でも、意図的に増やしてもだめなのだ。まず自然な流れがないと。
こんなふうに放っておいても毎日接して、聞いて、いろいろな人がだれに対してどんなときにどんなふうに言うのかを体でなんとなく知っていく感じは、英語にはなかった。
まあ、しかたないな…と思いながら、まだまだこれから縁ができるかも、といちおうあきらめずにいようと思う。
でも、多分いろんな語学が半端な生涯を送るんだろうな…。
 
 
今年の六月にはもう父はいないだろうなというのは、年始になんとなくわかっていた。
大晦日に、父はもうお正月を迎えるのは今年で限界なんだろうな、とうっすら思ったからだ。あんなに悲しい気持ちで「ゆく年くる年」を観たのははじめてだ。
そう思ったから、ほんとうにタイトな仕事は今年入れなかったし、お見舞いに通う合間に子どもになんとしても晩ご飯を作りたかったから、夜の予定もほとんどなしにしていた。
この数ヶ月ぽっかりと時間ができたから、思う存分嘆き、韓国に旅をしたり、そしてなによりも思う存分家にいた。ドラマもやっと見れるようになったし、深夜テレビも楽しめる時間があった。朝ごはんを用意したり、お弁当のメニューを考えてから作り出したりもできた。前は前の晩に徹夜同然で用意して、一時間の仮眠でムリヤリ起きてすぐに寝ぼけてつめたりしていたのでちっとも楽しくなかった。
それはたとえたいしたことない時間でも、人間にとって必要な時間なのだ。
最初の項でも触れたことだけれど、これは、何回言っても言いすぎることはない。
雇用している個人にパワーがあっちゃ困る人たちがいて、それで社会のいろんな制度ができたんじゃないの?とよく言われているが、ほんとうなんだと思う。
この間、りかちゃんという一目おいている友達とお茶をしていたら、
「私は今、ひまでとっても幸せだから、いろんなことができるしわかるんだと思う」みたいなことを言っていた。すばらしいなと思った。彼女は元バリバリのキャリアウーマンで、この世でいちばん忙しい業界にいたし、ご両親も会社を経営していたので、忙しさについてはもう味わいつくした人生だから、説得力があった。
「もしも忙しく仕事をしていたら、体の中にあるオレンジジュースみたいなだいじなものがどんどん薄まっちゃうんだもん、そうしたら疲れるし、疲れると結局彼にも友達にもほんとうにはなにもしてあげられなくなるしさ」
とりかちゃんは言った。
なんていいこと言うんだろう、と私は思った。
売れっ子すぎる芸能人がだんだんパワーを失っていくみたいに、薄まっていくなにか。
昔むかし、ある国でパーティ的なものに行ったら、炒めた芋虫的なものをにっこにこしながら持ってきて「さあどうぞ!」みたいな顔をしてすすめくれた人がいて、
「私はけっこうです」と言うと、
「な〜〜〜〜んで?なんでなんで?ぜんぜんわからない、なんでこれを楽しまないの?ありえないありえない」みたいなことを本気で驚いた顔で言っていた。
今も芋虫的なものは食べられないけれど、彼のあの表情だけは忘れられない。
なんていうのかなあ、自分にとっていいものを無邪気にひたすらに人にすすめるような、ああいう顔。どんな場面でも最近見ない。
ハワイの人が夕陽を指差すような、台湾の人が熟れたベルフルーツを試食させてくれるような、韓国の人がカンジャンケジャンにかぶりつきながらおいしいところを分けてくれるみたいな、あの感じ。
時間がたっぷりある中で疑いを知らず、急がさせられずに育まれた、ああいう確信に満ちたものが、りかちゃんの言うオレンジジュースみたいなものを濃く保つんだと思う。
  2012年5月 ページ: 1