人生のこつあれこれ 2012年3月

今月の事件と言えばひとことにつきる。
「父親が死んだ」
ああ、びっくりした。もうこわいものはない。もちろん人生にはこれからもいろんなことがあるだろう。しかし予想がつくことのなかで最高に恐ろしいことはもう終わった。
ただでさえ「まわりのみんなの親」みたいな存在だった父なので「まわりのみんなの親がなんと自分のほんとうの親だよ!」だった私と姉にしたら、いくら高齢だったとは言え、人生に大きな穴があいたみたいな感じだ。
「病院の玄関に立っただけで吐く」「病院に行くと心が逃避してうつろになってしまう」と私も姉も毎日言っている。母のお見舞いで日々同じ病院に行くんだけれど、心が泳いでしまって全然ちゃんとその場にいられない。
しかし、泣いたりさわいだりする感じはなぜかない。
別れとは常にそういうものだと思うが「別れるとわかっていて会っている」間がいちばんつらい。今はもはやただ力が入らないだけという感じ。じょじょに力が戻って来るだろうというのも実感できる。
死は恋愛の別れといっしょで、ああしていればこうしていればが必ずあるし、しばらくは頭がそのことだけでいっぱいで、いつも自分のトーンを薄暗く支配している。先週の今頃はまだいた、先月の今頃は会っていた、そんな気持ちでしかカレンダーを見ることができないのも似ている。あの時に戻れるならなんでもするのにな、と思うところも似ている。
泣く気まんまんだったのにお通夜でも告別式でも泣かなかったのは、その前にあまりにも泣きすぎたからだろうと思う。この一ヶ月、泣きすぎて鼻水が耳のほうに供給されすぎてちっとも中耳炎が治らなかった。
なのに、父の遺体を前にして泣かない自分にびっくりした。
もう、全てをやり終えたあとの気持ちだけがそこにあった。
信じていないわけでもない、乗り越えたわけでもない。
ただ、あまりにもつらい期間を過ごしたので、もう涙が出てこないのだ。
それになんと言っても、死んだお父さんのほうが生きてる苦しそうなお父さんよりも、見ていて泣けてこないのだった。
もちろん今の毎日の中でも急に涙が出てくることがある。それは自然なことだ。でも、なにもできなくなるという感じではなく、体の奥というか遺伝子というか、そういうものがしみじみ悲しんでいるような感じだ。
前にとても親しい友達がお父さんを亡くしたとき「おいおい泣いていた自分の反応にびっくりした。それからはいつも自分がいろんなことにその瞬間、どういう反応をするかがいちばん面白くて生きているようになった」と言っていたが、反応は真逆でも私もそんな感じだ。
なんで未来を観てほしいなんて昔思っていたんだろう?
そんな面白いこと、どんなに苦しくてもハラハラドキドキしても、絶対に知らない方がいいって。
ほんとうに素直にそう思えるのだ。
目が覚めたような気持ちだ。
もちろんカウンセラーにアドバイスを受けるという意味においては、これからもいろんなサイキックの人に会うし、楽しく観てもらうと思う。でも、未来が知りたい気持ち、なにが起こるか知りたいような気持ち、そこがいきなり突き抜けてなくなってしまったので、びっくりした。
人は知らないからこそがんばれるし、知らないっていうことだけがこの限りある時間しか持っていない人類の手にしている唯一の自由なんだ、それがほんとうの意味でわかったのだろうと思う。
 

ここ数年は、毎日新聞の死亡欄を見るごとに「遠くないある朝、これを泣きながら見るんだ」と思っていた。病院に行くたびに「ああ、この廊下の奥の霊安室に私はもうすぐ行くんだ」とも。
そうでなかったのにも、びっくりした。
私はその瞬間、予想外に香港にいたのだった。だから新聞も見なかったし、霊安室にも行かなかった。予想っていうのがばかばかしいのはこのことでもよくわかった。
私は香港にいて「危篤がいっそう危篤になった」という知らせを聞き、あと一晩もってくれと思いながら、家族といっちゃんとビールを飲んでポテトチップスを食べていた。
父の話を和やかにしていて、予定より早い飛行機は取れなかったからもう諦めて、夜の式典の大仕事を終えた後の清々しい気持ちで、父がもってくれることをひたすら祈りながらも、みんな笑顔だった。突然部屋が一瞬明るくなって、四人しかいない部屋の中で「ここにいる五人は」とチビが人数を言い間違えた。それはだいたい父が亡くなった時刻だったから、きっと来てくれたんだと思うようにしている。
香港で迎えた翌日は奇妙に楽しかった。
もう急がなくていいんだというあきらめと、生あたたかい空気と、ちょうど父と過ごした子どもの頃の昭和の日本みたいな香港のにぎわい、おいしくて小さい食べ物たちと、身内だけの時間。なによりも美しい追悼の時間だったと今は感じる。ほとんど眠れなかったけれど、父がずっと近くにいるような、温かく澄んだ光に包まれている感じがした。
あれがもしもいつもの家事でいっぱいの自分の家だったら、タクシーでかけつけても間に合わなかったあの夜、きっととても淋しくつらかったと思う。
 

これから書くことは、特に医療の関係者をいやな気持ちにさせるとわかっている。
そして私もじゅうじゅうわかってはいる。
現場はそういうものだし、みんなへとへとだし、生きるとか死ぬに関して心や体に余裕がある状況ではないのだということを。
私の書いていることは、戦場で「食事にしましょう、テーブルクロスどこですか?」って言ってるようなものだっていうことも。
また、施設によって起きることはまちまちだろうとも思う。
だからあくまで個人的な体験&感想だということをふまえて読んでほしいと思う。
父はあまりにも体に対する気配りが遅すぎた。とにかく体に関しては不器用な扱いばかりだったと思う。そしてもう体がきかなくなってから健康に対する注意をやっとはじめ、さらに致命的なことに海で溺れた。
あの溺れた体験がボディーブローのようにあらゆるところに影響を与え、父をいっそう弱らせたのだ。
それにしても父はよくがんばった。そこからのねばりは我が親ながら掛け値なく尊敬できるものだった。毎日自分で体じゅうをマッサージして、ストレッチして、見えない目をなるべく保たせ、血糖値を毎日はかり、歩けるときは少しでも歩き、決して家の中では車いすを使わなかった。
姉も父が好きなどん兵衛とか一平ちゃんとかとんかつとかを娯楽にさしはさみつつ、しっかりとヘルシーなごはんを作ってあげていたし、ほんとうは脂っこいものが好きなのにそれをちゃんとよく食べていたと思う。
晩年は孫が来ると楽しくいっしょにごはんを食べ、話したりけんかしたり笑ったり、よい時間をたくさん過ごした。
孫がものごころつくまえにとっくに去っていてもおかしくはない体調だったし、大腸がんも経ていたのにも関わらず、たくさんの時間を残してくれた。
母の兄が亡くなり母がなにも食べなくなったとき、入院の判断をしたのも父だった。
「これ以上放っておくと、虐待の域に入ってしまう気がした」と父は言っていた。もちろんだれも母を虐待していなくて、母が母を虐待していたことをあんなにみごとに言い表すなんて、と私は思った。
父が亡くなったとき私も姉もその場にいなかったけれど、なぜか母がたまたま骨折で入院していて、同じ病院の同じ棟の屋根の下にいた。最後まで同じ屋根の下にいて夫婦を全うしたのだから、すごいと思う。
それは思想的なすごさではなくて、人としてのすごさだ。
もう絶対ムリという状態でも、父に「がんばって」と言うと「うん、がんばってる」と何回でも言い返してきた。しゃべれるときは「支払いの心配があったら俺に言ってくれ」と言っていた(そして姉が『あの状態の俺に言ってどうなるんだよ〜』と後で突っ込んでいた)。それがお父さんというものなのだろう。
おつかれさまでした、と素直に言いたい気持ちだ。
だとしたら、なぜ父の死がなんとなく苦いのか。
父はネイティブアメリカンの長老みたいに、歳をとればとるほど「いるだけでいい」存在になってみなが顔を見に来たし、多少ボケても尊敬されていた。だからもっとすっと去っていくかと思った。ある朝寝ていたら血糖値が下がりすぎてそのまま去っていく、というのがあの病状ではいちばん大きな可能性だったし、私もいつでもそれを覚悟していた。でもそうではなかった。
私は今も思っている。
父はもう少しだけ、あと数ヶ月は生きられる力を持っていたのではないかなあ、と。
あくまで余裕は数ヶ月だった、そうも思う。
お正月にものを飲み込めなくなったとき、そう思った。来年のお正月はもういないんだなと感じた。
でも、多分あと数ヶ月の余力はあったと思うのだ。
院内での感染を含む様々なアクシデントが重なり、早まってしまったのだと思う。
なんて残念なことだ、そう思ってやはり少し悔いている。
今、あまりにも捧げ尽くし、傷つきすぎて姉も私もへろへろのよれよれでがっくりきている。それぞれのアプローチは違うけれど、家族もほんとうによくがんばったと思う。
姉は自分も体調が悪いのに毎日お見舞いに行き、私は週に二回行きながら、毎晩一時間ひたすらに祈っていた。祈るときはコードみたいなの(としか言いようがない)をつないで祈るのだが、父がまるで釣りみたいにぐぐ〜っと引いてくるときがあった。父の熱が高いときは私の熱も上がり、手や肩が痛いときは私も痛かった。
父が亡くなる前の週の夜中、私はトランス状態みたいになって、おいおい泣きながら胃が痛いとのたうち回った。あのとき、父は多分もう戻れない体調になったんだと思う。
これ、私にとってよほど合う人にしかできないことなのだが、ヒーリングとかを生業にしている人ってほんとうにすごい!と思わずにはいられないくらいヘトヘトになった。
朝起きるといつも私の体は死人みたいにかちんかちんに固まっていた。
父が亡くなってからはそんなことはない。やはりなにかをあげていたんだと思う。自分が減るくらいにあげていたんだと。でもそれでもいい、もっとあげていたかった。
重なったアクシデントを乗り越える力をどうして父が持てなかったのか、それはここ数年、父は目も見えず、歩けず、食べるのも少なくなって、父の一番好きな楽しいことがなにもできなくって「精神の貯金」がなくなってしまっていたからだと思う。
父は散歩と、本を読むのと、原稿を書くのと、食べるのがいちばん好きだった。そして最愛の猫、フラン子ちゃんと過ごしたかった。でもその全てができなくなった晩年だった。フラン子ちゃんが先に死んだときの父の落ち込みは見ていられないくらいだった。
こういうことがまたしたい、こういう楽しみがある、だから生きる。それがシンプルに人というものだと思うのだ。孫がかわいい、長女の病気が心配だ、次女がへんなものを書いていないか心配だ、それはもちろんひとつの力だろう。しかし仕事にかけてきた人生、猫がいつもいっしょにいた人生、その個人的な楽しみがなにもないのにみんなが愛してるからがんばってと言っても、がんばれない。
それはそれはとても残念なことで、書いていても涙が出る。
でも、みなさん、肝に銘じてほしい。私もそうする。
自分の楽しみの貯金は、自分でしかできないのだ。他の人にはどんなにその人を思っていてもしてあげられないのだ。そして楽しみの貯金は生命の力に直結している。
だから、自分の楽しいことを長く続けるためになにが必要か、計画しておいてほしいと思う。それがどんなつまらないことでも、周囲の役にたたなそうなことでも、なんでもいい。
最後のほうの父はボケてもはやサイキック的になっていたし、見えない世界のことまで見えるようになっていたし「こう言っている内容はいかにもボケて的外れに聞こえるが、実は別のあのことをずばりと指しているのだろうな」という実は的確な発言が多かった。もう少し、聞いていたかった。
これは遺言だと感じたのは、うちのチビに関してだった。
チビが父に飲み物を作る習慣があったのだが、それは想像を絶するような甘いもので、プロポリス、お酢、オリゴ糖、ハイサワーなどなどものすごいものをぐちゃぐちゃにカクテルにしたものなんだけれど、父はたいていものすごくおいしいと言った。
そしてある夜、私と夫に言った。
「このあいだチビちゃんが泊まりに来たとき、あの飲み物を作っているのを見ていたら、俺らが考えているよりもあの子の自由さははるかにすごい、及びもつかない自由さだということがわかってきた。きみらはきみらなりにかなり自由に育てていると思っていると思うけど、あの子はもっともっと、信じられないくらい自由な子だから、それをこわさないようにするようにそうとう気をつけないといけないという感じがした」
なんとなく言いたいことがわかる気がして、私と夫はそうすると言ったら、父は笑顔で言った。
「今日はたいへん満足です」
あの笑顔を一生忘れないでいたいと思う。
「君のなんでもずばっと言いきるところはよくないところだと思うけれど、君はもういるだけでなにかがある、そういう存在になってきているから大丈夫だと思う」と父が私に関して言ってくれたことも大事に思っている。
父が最後に読んだ私の作品は「どんぐり姉妹」。
「あとは読むほうの好みの問題だけで、もう一人前だと感じた」と言ってくれた。
そこから後は、もう仕事の話は終わり、私たちはただの父と娘に戻っていった。
最後に実家で元気な父を見たとき、父はずっとにこにこしていた。歌も歌っていた。そして天草の英雄として祖父が思っていた人物の話をしていた。大好きなむかごを食べて、これはどうやってなるものなのか、野生になるものだったらどんな動物が食べにくるのか、と質問していた。マッサージをして別れたあの夜が、最後の夜でよかったと思う。
病院で父に「一回は家に帰ろう」と言うと「これじゃ、もう、どこでもいっしょだ」と言った。「痰の吸引はお年寄りの仕事ですから、がまんして」と言うと笑ってくれた。そんなふうにちゃんと状況がわかっていたけれど、弱音は吐かなかった。
でも体がもうついていかなかったみたいだった。
最後の最後は全ての管を外してもらいたかったけれど、私はそれを言うのにも間に合わなかった。それも悔いているひとつのことだ。
管が悪いとかいうのではない。あれだけ具合が悪ければ、なにがどこにどうつながっていたっていっしょだとも思う。
でもしまいには「首に点滴の管をさして、鼻から胃にも管を入れて栄養を入れて、その栄養が入るようにまずお湯をおなかに入れて温め、血が作れないから輸血もして、熱があるから頭と脇の下はがんがん冷やして、痰を柔らかくするために吸入をして、管をはずしたがって暴れるから手はミトンをしたあげくにベッドに拘束されてる」という、こりゃ、どう考えてもむりがあるだろう、これらの処置を体が整理して全部うまくいいほうにまとめられたらそりゃよほど健康な人だろう、という気がした。
医療に問題があると言いたいわけでもない。ただ、弱っていればいるほど、それはいっぺんにやっても体も心もむりだと言うだろう。
父は頭がはっきりしているときホスピスがいい感じであることを強烈にいやがっていたし、なじんだ場所にいたかったみたいなので、それになんと言ってももう動かせそうにないので、ぐっと黙って見ていたけれど、つらくて毎回泣きながら帰った。
もうかたくなって冷たくなってきている体を動かすと、父はすごくつらそうに叫ぶ。
それでもまるで荷物を動かすみたいにどすんどすんと力を入れて看護師さんたちは父をひっくり返す。力がないんだからしかたない。他にも百人以上患者さんがいるんだから、いちいちそっとなんてしていられない。そりゃそうだろう。そう言うならご家族で二十四時間やってください、と言われたらできないからここに入ってもらっているのだから、しかたない。
それでも、とてもつらかった。
話せば聞こえていてそれを表せないだけなのに、担当の人たちはものすごい大声で父の耳元で怒鳴る。ほほをぐいぐい押して返事をするまで続ける。それもつらかった。
「もう死ぬんだから、もう少し優しく動かしてください」と言いたかったけれど、彼女たちの悪気のない、疲れているのに精一杯明るく振る舞っている姿を見ると、言えなかった。そう教わっているのだ。人は病気だと鈍くなるし、反応を確かめないで退室してはいけないと信じているのだ。いつか彼女たちが年老いて死ぬときまで、決してわからないことなのだ。
もちろん優しい人もいた。担当の医師(ドラえもんにそっくりな堀江先生だから姉はひそかにホリえもんと呼んでいた…)もとても気を配ってくれるいい人だった。
そんな人たちに会えた日はこちらも安心して帰れた。いろんな担当さんがいる、あたりまえだ、病院なんだから。
もう口からものをとらないでと言われていたので、はちみつをなめさせたり、太古の水をぽたぽたたらしたりできたのが、せめてできたことだ。
でも、やっぱりつらかった。自分が人間が想像を絶するくらいデリケートな仕組みでできていることを日々確認するような仕事についているだけに、見ているだけで胃が痛んだ。
あれでよかったのか、というのは今病院で親を看取る全員が考えてしまうことだろうし、今の時代にはその答えは見つかっていない。
だから、自分のときはどうしたらいいのか、どうなるのか、考えずにはいられなかった。
現代は、自然に死ぬことがいちばんむつかしい。そんな時代なのだ。
よほど体調をすっと整えていないと初産の自然分娩がむつかしいように、自然に死ぬことにも細心の注意を払ってトライしなくてはだめなのだろう。
 

最後に会ったとき、私は友達といっしょで、私は「香港は行けそうだが、そのあとのイギリスをキャンセルすべきかどうか」と悩んでいた。覚悟しきっていた。でも友達は「本人が諦めていないのに諦めちゃだめ」とはげましてくれ、父のこともはげましてくれた。長い時間を父の病室でわりとふだんどおり、昔の暮らしみたいに友達とおしゃべりして過ごし「お父さん、すぐ帰るから、土曜日にチビと来るね」といつになく泣かずに希望をもって明るく別れた。
覚悟のあるあいさつができなかったのは惜しかったけれど、まだ先がある雰囲気で会えたことは最高のことだった。
その前に父にはみんな伝えてあった。感謝も、まだ行かないでほしいことも。
だから今しかないな、と父は思ったんだと思う。自分のために人が予定を変えるのが大嫌いな父だった。
約束した土曜日に会えなかったこと、だれもいない部屋で死なせてしまったことが悲しくないと言ったらうそになる。でも、この世でいちばん悲しいことは、心がだれからも寄り添われていないことだ。そういう意味では父は幸せだった。二十四時間ずっと、私も姉も父のことを考えていたし、父はみんなに愛されていたからだ。父はひとりの人間として、とても誠実で行動と発言が一致していて、うそのない人生を送った。問題があるとしたら不器用なところだけで、それが結局命を縮めた。それも統一感のあることだと思うし、人間は完璧でないのがあたりまえだからしかたない。
死への旅はお産といっしょで最後の最後はたったひとりの旅だ。しかし物理的にひとりでもひとりではないのが人生の醍醐味だと思う。
親がいなくなってみると、子供のころ、いっしょに旅行したり行事をしたりしたことがいちばんの思い出だということがわかる。だから今、子どもが小さいうちに家族の時間を大事にしようといっそう思うようになった。
思春期に「なんでこの歳になって親と泊まりに出かけなくちゃいかんの」と思っていたけど、それでも毎回旅に参加しておいてよかったとも思った。思春期は「したいことがしたい、自分なりにしたい」という気持ちがいちばん強い時期だけれど、自分と自分のこどもに関しては、そんなときでも、後で自分がいなくなったときのために確実に思い出を作っておこうと思った。
 

泣けて泣けて目の前が真っ暗になった状態でひとり階段を五階分下りて、病院の入り口で運転バイトのはっちゃんに待っていてもらった車に乗り込んで、半泣きで帰り、家につくともうへとへとでがっくりと寝てしまう。そして目を覚まして明日のお弁当と晩ご飯を作る毎日だった。まるで自分の体が自動に運転されているように家事と仕事をこなしていた。今もかなり自動運転だが、そのころの張りつめ度とはわけがちがう。
姉がこの時期のことをあまりにもうまく言い表していた。
「息をするようにひとつひとつこなしていくしかない」と。
まさにそういう感じだった。
たったひとつの楽しみが、ハラハラドキドキして続きが気になる「華麗なる遺産」を家族で一話ずつ観ることだった。あまりにも面白いから観ているあいだだけ全てを忘れることができた。出て来る人たちをほんとうの友達や家族みたいに思えた。家族三人ともスンギファンになり、彼の恋を自分たちみんなの恋みたいに応援した。
あの時間があったことが、夫とチビと私をどんなにひとつにしたか、どんなに温かい時間だったか、どれだけ救われたか。
その一時間だけ、父が死にそうだということを忘れることができたから、ほんとうに父を助けて見舞うエネルギーを充電できたのだった。
「この番組を観終わってしまったら、なにかが終わってしまう」
私の勘はひたすらにそううずいていて、でも今日はまだ終わってない、明日も観れる、そう思ってなんとか持ちこたえていた。それは「今日はまだ父が生きていた、明日も会える、だから今は考えないでいい」と全く同じ意味だったと思う。
最終回を観た次の日は、ぽかんとしてなにもできなかったくらい落ち込んだ。
これで夢は終わり、香港に行って帰ってきたら、お父さんを見送る大仕事だけが待っている、そう思ったら、力がどうしても入らなかった。
でも思ったより早く父は逝ってしまった。
なので、あの期間が少しでも幸せだったことがどんなに大事なことか、今になるとあまりのタイミングにドキドキするくらいだ。
こういう体験に支えられ、どうしても純文学に行ききろうという気持ちが起きない私だった。
他人が他人のために、しかも普通の人たちのために作る娯楽がどんなに愛のこもったものか。
それは主婦が、またあらゆる飲食店がごはんを作るのと全く同じだと思う。低く見られやすいし芸術と見なされにくい毎日の消えていくアート、そういうものがいちばん好きだ。自分の作品も、ノーベル賞とは無縁でもいいし、歴史に残らなくてもいいから、そうであってほしい。
だから、震災の直後に高級レストランで食事をしたことを全く後悔していない。
本気でやっているレストランで、客が来なくて食材があまるということがどんなことか、想像しただけで動かずにいられなかった。
そういうレストランでは当然東北の食材を信頼関係のある取引で使っているわけで、店がなくなったらそちらにも影響が出るに決まっている。世の中は必ずつながっている。
「震災で避難所で困っている人がいる、だから自分はぜいたくな外食はやめよう」と思うのはとてもまともだし正しい考えだが、全員がそれを強要されたら、最終的には被災地の農家の人たちに打撃を与えることになるかもしれない。
なにかをやめたら、どこかがとぎれる。なにがどこでどうつながっていてなにが自分を救っているのか、自分のどの行動が人を救っているのか、その因果関係は簡単には明らかにならない。
だから自分の行動は小さいものでも最後の線まで考えて、良き意図を持って、注意深くありたい。それでも人を傷つけてしまうのが人だからこそ、どこをどうしてもやりたいのか、自分にできることの中でなるべく考えたい。みんなが少しずつ分け持って、つながって、めぐって、成り立っていくものを、表面的な理屈で曲げたくない、常にそのときの体の声や勘の深い声を聞いていたい、そう思う。
本気でおいしいものを出そうとしているレストランの人たちは、お客さんが幸せでおいしい二時間を過ごすために、その思い出を害さないためにどんなに人生を削ってエネルギーを注いでいるか。それをよく知っている。
ドラマって映画と違って確かに低俗で、みな徹夜でがんがん創っていて、余裕がなくて、娯楽のためだけにあるもの。時期が終わったら残らない、時代に添って流れていくだけのもの。
でも、そこからしか生まれない力が好きだ。そこで起きるほんのいっときの奇跡が力になる。
そしてもうおばさんの私には、他のおばさんたちと同じく、今の日本の若い人たちのエネルギー低めの体つきや態度では充電できない。韓国の人たちの人としてのエネルギーにどんなに救われているか。
やがてはあの国にも時代がめぐり、今の日本と同じような倦怠感が訪れるのかもしれない。
しかし、人の力がいちばんだということを忘れないままであってほしいし、日本人もそれを取り戻せたらいいと思う。韓国のバラエティー番組を観ていると、感情の力が生き生きしていて、男の子は体を動かしてげらげら笑っているし、女の子は美に対して本気だし、とにかく無邪気だった頃の体の感覚がよみがえってくる。日本人は頭ばっかり使いすぎだなあ、と思う。もっとただ毎日を楽しく生きることを考えてもいい気がする。楽しくっていうのは、安全に平穏にではなく、ハイなことでもなく、ただ命が動いているような感覚のことで、それはほんとうに今、日本のどこに行ってもあまり見られないのが悲しい。
 
 
最後に父の意識がはっきりしているとき、私にも父にも多分これがはっきりと意志が通じ合える最後の機会なのだ、とわかっていたので、できれば逃げ出したいくらいこわかった。他でもない父が前に言った。
「親が死ぬのを見るのはほんとうにおっかないものなんだ。でも、それを経験するのは他のことに替えがたい大事なことだったとあれからずっと思ってる。そのことから逃げると、その後の人生、ずっといろんなことから逃げることになる」
これはほんとうのことだった。死に目のことではない。親が弱って死んでいくのを見ること、その流れを受け入れること。花が枯れていくように、野菜が腐っていくように、自然の止められないなにかを見て、ただ受け入れることだ。
Twitterでもさんざん書いたけれど、意識がはっきりする一回前にお見舞いに行ったとき、父は意識がなく、私はとなりに座ってただ体をさすっていた。
そうしたら、なんだかわからないけれど電車が陸橋を渡るイメージがどんどん浮かんで来た。陸橋、川、谷、渡る…これって、もしかしたら、まずいのではないかと思って、私は真剣に体をさすった。そして手を握ったら、父はしっかりと手を握り返してくれた。
そのときの不思議な感じはもうなんとも言えない。半分違うところに行っているような、半透明な感じだった。しかもとてもいい感じで電車は陸橋を渡っていたのだった。周りは緑の山、渓谷は美しく、鳥はきれいに飛び、空は青く…
私は父とどこかに旅行している感じがした。
病室を出たらもう立っていられないくらいへとへとで帰ったのを覚えている。
そしてその次に行ったら、父は意識がはっきりしていて、
「三途の川を渡る一歩手前までいったんですけど、ばななさんが上から光って助けにきてくれて、戻って来れました。だいたいわかったことと、わからないことがもう少しはっきり区別できたら、あと一歩でわかる、だいたいわかった」ということをくりかえし言っていた。
私は、ああいうのって通じ合ってるんだ!とほんとうにびっくりした。
「とにかく生きていてくれるだけでいい、まだいてほしい。まだ生きていてほしい」
と言ったら、
「年寄りは、同じことを繰り返すばっかりで、みんなもそう思ってるのがわかるから情けない」と言うので、
「そんなことはない、生きてるだけでいい。その人がなにができるかがその人じゃない。その人でいることがその人なんだから、いいんだ」と言ったら、
「それはそうだ」とうなずいた。
そして「だからいてくれるだけでいい」と言ったら、
「そう思えたらいいんですけれどねえ」と笑っていた。
病室を出たとき、私は足ががくがくするほどこわかった。
たいへんなことを聞いてしまったと思ったし、ちゃんとやりとげたと思ったけれど、やりとげてしまったら次はなにが待っているのか、なんとなくわかっていたのだった。認めたくないけれど、回復とか退院とかいうイメージがどうしてもわいてこなくて、それを打ち消して、まだ大丈夫だ、と思っては、また気持ちが沈む、そのくりかえしだった。
この体験はだれもが時間をかけて静かに乗り越えるべきもの。
いちばんの学びを突きつけてくるけれど、答えのないもの。
それを抱いて、また小説を書いていきたい。
 

ところで、香港の賞だけれど、お客さんたちを見ていたらあまり読書をしなさそうな金融関係の人ばっかりで、
「これは、金融の会社が文化的事業&税金の対策&パーティをして人々に会うためにもうけたものなんだなあ」としみじみ思った。アートを支えるのは企業のお金だから全然間違っていない。
韓国ドラマにはまったままで行ったからか、香港なのになぜか出会うのは韓国の人ばっかり。
候補者も韓国の人を応援して、韓国語のおめでとうを練習したりして…
自分たちは深夜の焼きそばやマンゴープリンにばかり命をかけ、朗読も微妙にはしょったりして、つまり、ちっとも本気で参加してなかった。金融の人たちを笑えない。
結局韓国の作家さんが受賞して、おめでとうの練習をしたかいがあったわ。
私がもっとまじめだったら、親は死ぬは、受賞はしないは、ほとんど持ち出しで、式典用にいっぱい服など買って損したなと思うんだろうけど、なぜか全然悔いがない。
仕事ってそういうものだと思うし、名指しで来られて引き受けたら、ある程度最善をつくしてあとは放っておく、そういうものだと思う。
私のほんとうの仕事は、文章を書く仕事だから、他のことは文句を言わずさくさくやるだけでいいんだと思っている。
 

小沢健二くんの「我ら、時」のライブ、数年前の「ひふみよ」の「帰って来たけどもう後はないかも、一度だけの祭りです」という気合いの入った状況もすばらしかったけれど、今回の現場っぽい感じと音楽の力にかけた感じがとても好きだった。弦楽器の美しい音色とすばらしい音響、彼の演奏の良さがみごとにかみあって、夢のような一体感が会場に生まれた。
いい曲ばかりだなあ、いい歌詞だなあとあらためて思ったし、歌がものすごくうまくなっていて、感心してただ素直に感動した。
自分も親が死んで暗かったが、お客さんたちの顔も全然二年前と違う。暗くて重くて、今の日本の状態を考えざるをえない様子の人ばかりだった。お祭りの浮かれ気分が全くないムード。しかし音楽がはじまると人々の顔はしだいに明るくなっていった。
それを見ていたら、やっぱり人が創ったものはいい、人にいっときの憩いを与え、力を与えるために、人は人に対して作品を創るんだ、と思った。小沢くんが言う通り、そこにはやはり愛とか希望がある。
日本で暮らしていない小沢くんが日々いろいろ考え、それを音楽にし、たまに人々に違う新しい空気を持ってきてくれる、その形で日本を愛してくれる、それがとてもありがたいなと思った。
「お父さんが死にそうな最後の頃は、『法事がライブにかかったらどうしよう』と思ってたよ〜」と言ったら、小沢くんがよろよろっとなって、
「今のは聞かなかったことにしよう!」と言った笑顔が最高にすばらしかったことも、一生忘れない。
 

私は実家に会いに行ったり、看病しにいったり、ごはんをいっしょに食べに行ったりしているだけだったので、自分の生活の中に親はいなかった。
だからいつもの暮らしの中で「あ、そうだ、もうお父さんいないんだ」と思うだけで、まだまだぽかんとしている。
さりげなく毎日メールをくれる友達たち、ラストオーダー過ぎているのにゆっくりごはんを食べさせてくれた近所のお店の人たち、土曜日なのにかけつけてくれた事務所の人たちや昔の友達、クムやフラ仲間、葬儀の全てをしきってくれたいとこ、心をこめて告別式にいらしてくださった糸井さんや石原さん、ずっとご祈祷してくださった大神神社の宮司さん…その他にもいっぱいいっぱいいただいた、みんなの温かさを毎日感じている。
トロワシャンブルのシナモントーストが大好きな私は、何の気なしにさっき食べに行った。おいしいコーヒーも飲もうと全くいつも通りに思った。お店の奥さんが席にいらして、しっかりとした優しい声と目で言ってくれた。
「お悔やみをもうしあげます、これから、とてもお淋しくなりますね。」
なんだかそれが深くしみてきて、あれから初めて時間が動きだした気がした。
淋しいなあ、お父さんに会いたいよ〜ん!まだまだ子どもでいたかったよ〜ん!お父さんって死なないとマジで思っていたよ、だって溺れても大腸がんになっても死ななかったんだもん!さらにはお父さんが死ぬときは急かもしくは穏やかだと信じていたのに!あんなに目減りするような、太刀打ちできないような状況下に置かれるなんて思ってもいなかった!神はほんとうにいるのか?あんなに人のためにつくしてきた人なのに、最後があんな感じだなんて、ひどい!…とは意外にも思わない。神ってなんだかいそうだなあとさえぼんやりと思っている。だって私は今、そんなに不幸な気持ちではないもの。あんなつらい時間をいっぱい過ごしたのに、きついものもいっぱい見たのに、無力感もばっちり感じたのに、しかもお父さんひとりで死んじゃったし、さらには運の悪いことが重なっちゃって、みんなが苦しんだのに、なぜか不幸でも悲惨でもない。どこかになんだかほんわかした部分がある。
こんな原稿、自分のサイトでないと絶対書けない。
頼まれたら相手の媒体を考慮するから、決して書けない。
だから思い切り書いているが、部分を無断転載することは、この欄はTwitterと違って著作権がしっかりしているのでしないでください。エージェントさんもいる以上、私の書いたものの権利は私だけのものではないのです。
にしても、これ、ほんとうに作家&四十八歳の文章なのか!?年齢が大人になったら人は大人になると思っていたら、ちっともなってない。
まあいいや、のんびりいこう。
お父さんは死んじゃったんだし、もうこうなっちゃったらしょうがない。
人生は折り返し点を過ぎてしまったが、私にはまだしばらく時間がある。そして今からがほんとうの私自身の人生なのだから。
  2012年3月 ページ: 1