人生のこつ、あれこれ 2012年1月

こんなに食いしん坊で食べてばっかりいる私なのに、一月の七日くらいに突然に「もう食べるということ全体に疲れたな」とふと思った。お歳暮でいただいたずわいがにを食べ過ぎたのだろう。かにって好きなのに少ししか食べられない私なので、そこですごい満腹になったのだろう。
こうなると突然少食期が始まる。
これが始まると、あの、食べることばっかり考えていた日々はなんなの?という感じになり、体重は減り、血糖値は下がり、勘が冴え、血はさらさらになり、酒も減り…これが一生続くといいのだが、数ヶ月でだいたい終わって、大食期がやってきてしまう。大食期はとにかくいろんなものが食べたいし、飲みたいし、なんでも大きくやってこい、大漁だ大漁だ!酒は一気飲みだ!みたいな不健康なメンタリティに支配されているので、トータルしてちっとも健康にならないし痩せもしない。
中年になって、たまにしゃれにならないパンパンさになるようになった。
数日過食すると、面白いくらい太るのである。目に見えて、首の周りや二の腕に肉がつく。もちろん腹にも。風船みたいに。
でも面白がっている場合ではない。これを続けていくと、糖尿病家系の私はアウトだ。
しかし、そういうときはたいてい忙しすぎてがさつな気持ちになっているので、太っていくのも気にならないという悪循環。
「フランス女性は太らない」という有名な本があるのだが、これを読み終わると突然「人生、このトーンがいい、おいしいものを少しだけ食べよう」というキラキラした気持ちになる。私にとってはこの本「世界一の美女の創り方」よりも有効だった。きっと仕事をバリバリして旅も多い女性の本だからだと思う。
これを大食期の始めにいつも読もうと決めているのに、つい忘れて大食に入ってしまうのだ…
で、自分ができないのに勧めるのもなんだけど、あの本、ものすごく有効(説得力なし)。
 
 
このあいだ、すごく年上の彼やご主人を持つすごい美人の女の友達とごはんを食べていたら、ふたりとも「お互いの仕事のいやだったことやストレスはふたりでは話し合わない、それぞれで解決して、家にはとにかくもちこまないようにする」と言っていた。
「だって、五十も過ぎてさあ、家に帰ってきてからも暗い話なんていけないよ!家ではさあ、ただ気を抜いてバカになれないと。楽しいことだけでいいよ、ただ明るい雰囲気だけでいい」「ね〜!ほんとうにそうだよね。五十過ぎて家に帰ってまでつめて考えられないよね」
ふたりが声をそろえてそう言うのを聞いて、この人たちがモテるのは美人だからだけじゃない、本気でこう思っているからだ、と思った。
もちろん私もできないほうだ。
私もこんなに男みたいに働いてるんだから、男に甘えさせるもんか!みたいについ思ってしまうことがどうしてもある。
でも、その筋が通った私の理屈が、人間そして男女にあてはまり通用することはまずない。
「なんでも話し合う夫婦っているけど、私は、何十年もたつうちに、自分のことは自分で解決して、ただ楽しく過ごそうとした夫婦と差が出るような気がするな。もちろん人によると思うけど、うちは今のやり方が合ってると思う。」
と彼女たちのひとりは言った。
私はとても感心してしまい、女性が女性であるってどういうことだろう、と考えた。
そして結論が出た。
女性は、鷹揚であるところがいちばん大事なんじゃないかなって。
モテるためとか、家庭を円満に収めるために、とかそういうためにじゃない。
女性の心と体のためにだ。
「ま、いいか」「あんまり考えてもね、さ、お菓子食べて寝よ」
みたいなところがないと、女性の人生はきついのではないだろうか。
誤解を恐れずに言うと、結婚したくないわけではないのに、しないでずっときた女性の共通項は「善悪好き嫌いをかなりきっちりつめる」「いろんなことをきっちりとつめて考える」ところなような気がしてならない。
それが悪いというのではなく「善悪や好き嫌いをつめると、人と暮らすのがすごく大変になる」ということなのだと思う。
ゆるく、わりとどうでもよく、わりと無頓着で、ときには相手の要望を無視してぐうたらでき、「ま、いいか」が合い言葉みたいなほうが、人と暮らすには楽なのだ。
もともとは神経質でつめるタイプ、さらに、いろ〜んな人と暮らしてだんだんだらしなくなってきた私なので、多分これは間違いないと思う。
しかし女性は年齢を重ねてひとりでいると、世間もうるさいから、どうしてもその「好き嫌い、つめる、はっきりと自分がある」という部分にどんどん重きをおくようになる。
それで男が寄り付かない…という悪循環になる気がする。
ひとりでいてもかなりハッピーでゆるくて、もういいや、楽しく一生一人で生きると決めている女性は、かなりの年齢でもとりあえず男は絶えない。
今はひとりだけれど結婚したい、そういうまじめできっちりしていて、おおむねすてきな女性たちを責めているのでは決してなく、単に事実だと思うのだ。
悲しいけれどこの世は筋が通ってないものだし、善悪に至っては法律に関わらない限りは全員がてきとうな基準をてきとうにすりあわせて生きている。
女が外で働いてどんなにへとへとで帰宅しても、男の人は「たいへんだったね」とは言ってくれるが、洗濯や皿洗いや調理やその後片付けをしないし、頼めば毎日同じことを同じようにやってはくれても、その脇道の家事を加減して見ながら臨機応変に対応なんてもちろんしてくれない。
これはあくまでたとえだが、いつも花瓶に花があるな、までは気づいてもたいていは「チューリップだった?バラだった?」と聞いたら忘れているだろう、インテリア関係か花屋でもない限り。
それは遺伝子の問題だから、もう理屈ではない。紙に家事の分担を書き出してもきちんとやってくれないともめている共働き夫婦もよく見るけど、そんなのはもう仕方ない。長年頼んで、ちょっとずつでも自分の分担をやってくれるようになれば御の字だ。そしてその頃には自分もあきらめて男性に対して鷹揚になる。「ま、いいか、お茶漬けで」「ま、いいか今日はこのくらいで」「掃除してないけどさっとふいて終わりでいいか」と立派なてきとうおばさんになっていくか、こつをつかんできりきりしないようになるか、手を抜く加減を体得するか、力仕事や運転や電球を替えることなどをたっぷり頼むか…そうやって替えのきかないうまくいっている夫婦ができあがっていくのでは。
男性は、自分の場所を自分なりに整えることには興味があるが、自分の巣全体を快適に保つという、世話をするという本能がないのだ。女性は基本的に独自の整え方ではあっても、どんなに疲れていても自分にとっての快適な巣にすごくこだわっている。散らかっているのが好きな女性はたくさんいるが、それは彼女たちにとってこだわる快適さがそこにあるからだと思う。
そして女性が男性のように働くと、疲れてきて、自分にとって快適な環境を作る暇がなくなり、どんどんきりきりしてなんでもつめていくようになる。
人権とか平等の問題は、私には語ることができない。
職場でのセクハラのすごさを私も外で働いたことがあるからよく知っているし、なんでより仕事ができても女だと給料が安いの?と思ったこともある。
でも男が仕事でさらされている嫉妬や虚栄心や権力の世界のすごさを見ると、やっぱり女は楽だなと思うこともある。
だけれど、そういうことの全てを超えて、健康のために、体のためには、やっぱり女性は他人に対して鷹揚なほうが楽だと思う。
「五十過ぎたって、人間はいつもちゃんと成長しているべきだし、問題には常に向き合うべき。いろいろなことを分かち合うべき。だからいつもちゃんと話し合ってふたりの間のバランスをつめていたい」
そう言いたい人もいっぱいいると思う。
私も一歩まちがえるとそういうタイプ。
でも、それは多分「ま、いいか」の真実には迫れない。
なによりも「ま、いいか」のほうが、家は汚くなるし、すっきりしないことがいろいろあるのに、家庭に笑顔があふれていやすくなる。いやすいほうがいいから、ま、いいか。
そのくらい人間っていい加減なものだし、有機的で、どろどろして、生々しい、つまりは動物であることから、全部は離れられないものなんだと思う。
 
 
私のことを、お金持ちだと思い続けている人もいそうだし、家事をなんとなく人にまかせて、なんとなくいい感じで手を汚さずに生きていると思っている人もいそうだな、ってたまにいただくメールとか手紙で思うんだけれど、ほんとうに、そうだったらどんなにいいでしょうと思います。
作家は労力のわりにもうからない仕事だし、家事と育児はドロドロになるまでやっているし、動物が好きだから家中が排泄物だらけでいつも掃除しているし、晩ごはんは九十%自炊だし、なんといっても机に向かい引きこもる仕事だし、手はいつもガサガサ、腰はいつも痛い、睡眠もいつも足りない。人生は永遠に続く労働だなって思っている。
それでも自分の家族と今は父が働けないので実家を支えるお金を出したら、なにも残らない。中年ってきっとそういう時期なんだと思う。
でも、不幸ではない。父が家族を充分支えるお金を残せなかったのは、父がまじめすぎてお金に汚くなさすぎたから。決して贅沢ではない人生を生きてきた。だから誇らしい気持ちで送金している。
忙しすぎてPTAの会合に出られないのがいちばん申し訳ない!っていつも思っているが、チビは学校が楽しくてしかたないみたいで、会合に出ている他のパパやママにまで仲良くしてもらっているらしく、ちょっと罪悪感が薄れる。
そんな生活では常に過労気味なので、倒れるとそうとう重篤になる。
今回はひどかった。単なるインフルエンザで終わらず、いつまでたっても起き上がれないし、急性中耳炎で痛くて気が狂いそうになった。薬が強すぎて薬でも倒れるが、飲まないわけにはいかず、ほんとうにひどい状態になった。
松浦弥太郎さんの「愛さなくてはいけないふたつのこと」を、寝込み後半に読んだ。本が読めるようになったのも最近で、当時は痛すぎて字が読めず、メールもろくにできなかった。
彼が自分の全てを等身大に文章に写している姿には、いつも胸うたれる。
人々が「なんだよこいつ」と思うかもしれないことを、堂々と、もはや彼の業とか性とかそういうものとして、まっすぐに書く、昭和の文人のような立派な態度だと思う。
耳あたりのいいことを全く書こうとしていないのも男性らしくてすばらしい。
決して楽ではない人生を、ただコツコツと歩いていく彼の文章が、弱っていた私に軸を作ってくれた。
彼は自分の私生活を仕事のためにものすごく制限して、仕事に影響が出ないようにしている。徹底した健康管理はいさぎよいほどで読んでいて気持ちがよかった。
月曜日に風邪でつらいと言いながら出社してくる人がいたら「今日の分のお給料を返してください」と言うと彼は書いている。どうして土日を体を休めるために使わなかったんだ、と。
私は自分を恥ずかしく思った。目一杯つめこんで、見切り発車でがんがんやって、過労で倒れて、周囲に迷惑をかける…そんなくりかえしでなんとかやってきた私。
尊敬する荒木飛呂彦先生も徹底した生活管理をして長年の過酷な連載に耐えてきたのだし、私ももうすぐ五十、そろそろまじめに考えなくては、と真剣な気持ちになった。
倒れた初期、本も読めない、原稿も書けない状態だったので、薬でぼうっとしたまま、痛い頭を押さえて必死でお弁当をつくり、子どもと夫を送り出して、ソファに倒れ込んで十時からの帯の韓流ドラマをぼんやり見ていたら、私はこの十年間ドラマをぼんやり見たこともないし、朝ソファに座ったこともないと気づいた。
いつもメールを書いているか、パソコンに向かっているか、仕事で観なくてはいけない資料や映画を観ているか。仕事で読まなくてはいけない本を読んでいるか。
自分の好きなことをする時間はほぼゼロで、それでもなんとかギリギリで回していたのだった。あるいは好きなことをしていても時間に追い立てられてあわててやっていた。
こんなことは長く続くはずがない。
こんなのは人生の一時期だから、目一杯やっちゃえ、いけるいける、そう思っていた私だが、そうではない。やはり人間はどんなときでも自分に糧を与えなくては生きていけない、そういう生き物なのだと思う。
さすがに反省したし、自分をもう少しちゃんと世話してあげないと、結局はいいものを書けないのだと思った。
過酷だった激務の日々は、修行だったのだろう。
これからは自分をいたわりながら、体と二人三脚で、少しずつ生きていかなくてはいけない。
自分を責めるでもなく、人を責めるでもなく、いろんなことを制限してでも、毎日をゆっくりしよう。健康でいよう、いい小説だけを書こう…松浦さんの本はがんばりすぎてきた私の背中をそっと撫でてくれたような気がした。
 
 
私はいろんな人に「思ったより全てが大きい!」と驚かれる。身長はひそかに百六十五センチあるし、体重は…とにかく大きい。
最近、仲良くあちこちに出かけているのんちゃんが、これまた私よりもずっとでかい。背も高いし、すらりとしていて、宝塚の人みたい。
このあいだ新宿三丁目で映画を観て、帰りにイタリアンでふたりで夜ご飯を食べていたとき、はっと気づいた。まわりには普通の人に混じってさりげなくゲイカップルがいっぱい。ああ、私たちのこの大きさ、組み合わせのよくわからなさ、深夜近くにふたりでイタリアンを食べている感じ…これは全員が私たちのことを年のいったレズカップルだと思っているだろうなあ。私がもし外から私たちを見たら、きっとそう思うもんなあ。仕方ないよなあ!
やけになって、腕を組んで帰りました。
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